さて、次の4章からはいよいよイエスが活動開始することになりますが、その前に3章の終わりには、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるシーンがあり、そしてルカが書き留めた長い家系図が出てきます。
NT Wright先生によると、この2つの記事はイエスがどこから来たのか、誰なのか、そしてどこに向かっているのか、を教えてくれる大事な記事だと言います。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」
聖書を読む際に、いつも考えるべきなのは、読んでいる内容が自分とどう関わるのか、神様は自分に何を語り、何を望んでいるか、と言うことだと思います。聖書が個人的なものでなければ、単に知識を蓄えるだけになってしまいます。念頭に置いておくと良いのは、「イエスは自分にとって誰、どんな存在だろう」と考えることです。
ある時、イエスは弟子たちに、「人々は私のことを誰だ、と言っているか」と尋ねます。これは答えるのが安全な質問です。他人事ですので。しかし、そのすぐ直後にイエスは「では、あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」と尋ねるのです。(マタイによる福音書16章) この質問にどう答えるか、どう行動するか、これは人生に関わる答えになります。他人事ではいられません。
ペテロがこれに答え、その結果、イエスが教会のスタートラインを明確に語られた聖書の箇所として有名です。ペテロの答えが「教会」全てに影響したのです。
(先週の日曜礼拝で牧師がそのあたりのことを語りました。そのことについてはまた「想うこと」でシェアしようと思います。)
イエスの洗礼、そして家系図はイエスが誰なのか、どんな目的を持っているのか、と言うことがわかる箇所なのです。
イエスは悔い改めの洗礼を受けたの?
バプテスマのヨハネは罪からの悔い改めの洗礼を人々に授け、イスラエルが神に立ち返り、救い主の到来に備えるための「荒野の声」 でした。
しかし、イエスの受けた洗礼は悔い改めの洗礼ではなく、「私たちと「同化」するための洗礼だったのです。罪も汚れもないイエスが私たちと同じ悔い改めの洗礼を受けたのはゴルゴタの丘で私たちの全ての罪を赦すためだったのです。(Michael Card)」
イエスの洗礼はイエスが私たちの罪を赦す十字架の道への第一歩だったのです。ペテロは後にこう語っています。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ペテロ第一の手紙2章22〜24節
そして、この救い主はしもべとして歩むのです。
天の父なる神の声、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」は、旧約聖書の預言者イザヤの救い主に関する預言にこだましています。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」
イザヤ書42章1節
イエスは一体誰?
わたしが初めて聖書を読んだのは留学中のことで、英語と日本語の対訳がついた聖書でした。通い始めたアメリカの教会でもらったんだと思います。その聖書は新約聖書だけだったのですが、最初のページを開けるとマタイの福音書でしたが、家系図から始まり何か聞いたことの無い名前ばかりだったと思いました。しばらく読んで今度はルカの福音書にまた系図が出てきます。
何で2回も出てきているのか、どうして微妙に違うのか、なんて疑問が起きます。これまで聖書研究者や学者達が色々調べているようです。様々な学説もありますが、大事だな、とわたしが思うのは、マタイの福音書がユダヤ人がメインの読者と想定されて書かれたので、アブラハムと言うユダヤの信仰の父、そしてダビデ王をフォーカスしていることが分かります。ルカの福音書は異邦人に対して書かれているとも言われるのでイエスの系図が天地創造の最初の人アダム、そして天地創造の神へと至っているのだとも考えられると思います。また、ルカは色々インタビューして証言を基にして福音書を書いたのですが、この家系図についてはおそらくイエスの母マリアからの証言が基になっているのではとも推測されています。
この家系図によってわかることは、「イエスは生粋のユダヤ人であり、ダビデ・ゼルバベルの子孫・つまり王家の出であることを述べている」こと、そして「イエスが神の子であることは天地創造へと繋がっている。それはイエスがイスラエルの救い主・メシアであると同時に全世界のメシアであることにも繋がっている。」(NT Wrigt, “Luke for Everyone”)
「エバンゲリオン」?
エバンゲリオンと聞くともしかしたらアニメを連想しますか? エバンゲリオンは、「福音」という言葉のギリシャ語 ”euanggelion” のラテン語版です。多分「ゴスペル」と言う言葉の方が馴染みがあるかもしれません。エバンゲリオンは、元来、「新しい王が即位した」、という宣言を表す言葉です。(Lois Tverberg, “Reading the Bible with Rabbi Jesus”)
NT Wright 先生のいうように、イエスの洗礼と家系図を通して、イエスは神の子、しもべ、生粋のユダヤ人であり、さらに、イエスは「王」として宣言されていることを忘れてはなりません。東方の学者達が幼子イエスを拝みに来たことも頭に浮かびますね。
福音は単に私たちの罪が赦されるよき知らせ、というだけでなく、実はその根底にはこの全地をひっくり返してしまう、統治される王なるイエスが現れた、という意味を持っているのです。
いよいよこのイエスの福音がルカによって紐解かれて行きます。ルカの福音書は「旅路」の書とも言われています。ルカは、この旅路で、様々な人々との出会い、イエスの言葉、行いを詳しく記してくれています。私たちの心の目を開き、イマジネーションをフルに活用して、イエスと弟子達と歩んで行きましょう。(Michael Card)
【新改訳聖書】
21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
23 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、
24 マタテの子、レビの子、メルキの子、ヤンナイの子、ヨセフの子、
25 マタテヤの子、アモスの子、ナホムの子、エスリの子、ナンガイの子、
26 マハテの子、マタテヤの子、シメイの子、ヨセクの子、ヨダの子、
27 ヨハナンの子、レサの子、ゾロバベルの子、サラテルの子、ネリの子、
28 メルキの子、アデイの子、コサムの子、エルマダムの子、エルの子、
29 ヨシュアの子、エリエゼルの子、ヨリムの子、マタテの子、レビの子、
30 シメオンの子、ユダの子、ヨセフの子、ヨナムの子、エリヤキムの子、
31 メレヤの子、メナの子、マタタの子、ナタンの子、ダビデの子、
32 エッサイの子、オペデの子、ボアズの子、サラの子、ナアソンの子、
33 アミナダブの子、アデミンの子、アルニの子、エスロンの子、パレスの子、ユダの子、
34 ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子、テラの子、ナホルの子、
35 セルグの子、レウの子、ペレグの子、エベルの子、サラの子、
36 カイナンの子、アルパクサデの子、セムの子、ノアの子、ラメクの子、
37 メトセラの子、エノクの子、ヤレデの子、マハラレルの子、カイナンの子、
38 エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。
ルカの福音書3章21節〜38節