読む前の要点:
- この世界はどの様にできたと信じますか?偶然が重なったとされるなら、その論点は何でしょうか?逆に創り主の手によってだとされるならその論点は何でしょうか?
- 神を理解できなければ、信仰を持つ事に問題が生じると思いますか?
- 神が自分の創り主であると言うことを信じる場合と信じない場合では、「神」と言う存在に対する捕らえ方はどう違ってくるでしょうか?
偉大なる創り主
目に見えない。 声も聞こえない。 神様って本当に居るの? それから、居るとしたら自分とどう関係があるんだろう?
人は「神」と言う言葉を初めて聞いた頃から、こんな風に、疑問を感じるものではないでしょうか? 聖書では神と言う方を次の通りのお方だと語っています。(かっこ内は聖書からの引用元、又はこのシリーズでその課題に関連する他の章へのリンクです。)
(a) 唯一であられる方(イザヤ書45:5)
(b) 三位一体なる方 (とびら②「父と子と聖霊」 参照)
(c) 永遠なる方 (とびら⑬ 「ズームアウト」参照)(詩篇90:1-2)
(d) 聖なる方(出エジプト記 15:11)
(e) 全知なる方(ヘブル人への手紙4:13)
(f) 全能なる方(マルコの福音書10:27)
(g) 遍在(全ての場所に同時に臨在)であられる方。(エレミヤ書23:24)
(h) 愛なる方 (エペソ人への手紙 2:4~5)
(i) 不変なる方(詩篇102:25~27)
(j) 公正であられる方 (イザヤ51:4~5)
(k) 天地、万物の創り主であられる方 (創世記 1、2章)
神に関してこれらの「神性」が聖書の中ではっきり語られ、画き出されています。しかし、それと同時に、聖書を読んでいくと必ず誰もがぶち当たる壁があります。 それは、神は頭で理解し切きれる相手ではないと言う事です。 実に神ご自身もそう言っておられます。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高い。(イザヤ書55:8~9)
無限であられる偉大な神を、限界のある人間の理解や想像に詰め込む事はできないと言う事です。なので、人が聖書を読んでいても理解しがたいと思える事柄に遭遇する事は避けられません。ただ、私たちは「神を理解する」事が不十分でも「神を知る」事、そして愛し合う関係を持つ事はできます。
一つの例を取り上げます。
あるところに、3歳になる息子を持つ一人の優秀なエンジニアの父親が居たとします。その息子には、父親の仕事の内容など何一つ理解できるわけではありません。父親にしても息子が仕事の内容を理解する事など要求する訳がないのです。仮に父親が仕事を終えて家にたどり着いた時、息子が家の奥から迎え出て、何かのエンジンの部品や造りの話を真顔で持ち出してきて細かく把握しているならば、やはり不自然な事でしょう。そんな会話をするよりも、息子が家の奥からバタバタ走って来てお父さんに飛びつく方がよっぽど親子の関係を表すものではないでしょうか。人は神と歩むにつれて、子供が成長して理解が増す様に、その人の魂も神への理解が増していき、神もそれを望まれますが、完全な理解に達する事は、上の聖句が語るように、不可能な事なのです。それでも、この3才児が父親を慕う様に神を父と呼び求め、愛し合い、親しい関係を持つ事は可能なのです。神は、わたしたちとこの様な親と子の関係を持つための扉をご自身で用意してくださいました。それが聖書の主なメッセージなのです。それが具体的にどう言う事なのか、この「とびら」シリーズの中で学んで下さる事を望みます。
創り主?
世の中には神と言う存在を信じる人は多く居ます。むしろ、人類の殆んどが何らかの形で神の存在を信じている事でしょう。しかし、多くの人はその信じている「神」と言う存在がその人自身を造られたのだと信じている訳ではない様です。創り主と信じる事と信じない事では、どの様にその人の信仰に影響するでしょうか?
「創り主でない」とする場合:
神を創り主と認めない場合、その人にとって、神の存在自体もこの世の一部に過ぎなくなります。神と言う存在は人にとって、せいぜい偉大な魔術師や教師と言う感覚で終わってしまうでしょう。その上、個人の存在価値に関しても影響します。一般の現代社会の教育制度が教える様に、人間一人一人は、偶然に父親と母親の間から、何億万分の1と言う確率で「たまたま」この世に生まれて来る事になります。
では、その「たまたまの存在」である人間が、「創り主ではない神」と出会った場合、その人にとって神とは見知らぬ相手であり、その人自身と対等な相手に過ぎなくなります。なので、別に信じようと信じまいと大差はありません。自分の思いの向くままの好き勝手にやりたい放題の道を歩んでも平気です。自分の理想の「神」と言う存在を作り上げる事もできれば、別の人間を拝む存在として見上げる事もできます。それどころか、自分自身を神とする、すなわち、自分の考え、言葉や行動の全てが正しく、間違える事は無いと思い込んでしまう事も実際には頻繁に起こりますね。
実際のところ、多かれ少なかれ、これらの事を人類は遠い昔から行って来ています。創り主がおらず、偶然に発生したとされる世界には秩序や道徳基準は据えられず、どの様な哲学でも教えでも、個人で何を信じようが自由という事になります。神と言う存在が居ても居なくても大差はなくなります。これが本当であるならば、「初めに神が天と地とを創造した。」と語る聖書の一番初めの一句は、真実ではなくなり、創り主としての権威を持った神の言葉とされるこの聖書はすべて意味の無い書物という事になり、却下される事になります。
「創り主である」とする場合:
「創り主である」事が事実ならば、その人の信仰に上記の正反対の影響が及ぼされる事になります。神が創造主であられる事は、聖書にハッキリと書かれてあります。そのいくつかを見てみましょう
初めに、神が天と地を創造した (創世記1:1)
あなたが私の内臓をつくり、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 (詩篇139:13)
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。(マタイ10:30)
神は一人の人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒の働き17:26-27)
聖書は、神が万物の創り主であって、この世、そして全宇宙に存在する秩序全てを司っておられ、この世に生まれるすべての生き物、又、私たち人間一人ひとりの体や心をも創られたと教えています。私たちの体の細胞、分子や原子のような小さな世界から大宇宙まで、自然界の何処を見ても秩序や法則の無い場所も生き物も存在しません。設計された全ての物の後ろには設計士が居るように、万物の法則の後ろにはそれを据えた神がおられます。人は創り主であられる神を知る時、もはやそのお方が自分自身と対等なのではなく、自分の人生を司る権威をもったお方であると言う事を知ります。
結び
神は多くの人が描いている様な遠いお方ではなく、全ての人間を一人一人を深く愛しておられます。 ご自身が創られた人と親子の様に愛し合う関係を築き、その人をご自身に近づける為に、その人の罪を洗い流す唯一の解決法をイエスキリストの十字架を通して備えて下さいました。(とびら⑦ 「神が取った手段」参照) 人が創り主なる神様と関係を持つとは、神に権威を明け渡し、その愛と赦しを受けて人生を生き、神の国の家族として永遠の命を受ける事だと聖書は語っています。
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