先日ユーチューブで日本のニュース番組で、コロナ治療の現場の様子の報道がありました。その中で、神戸の看護師の中谷さんはこんな風にインタビューに答えていました。
「コロナの患者さんは意識があって、しゃべって「頑張ろう」と思っていて、挿管してそのまま(亡くなる)。。。そんな感じでしんどくなるスタッフも多いですね。」
「勤務中に涙が出てくる」
私は関西人ではありませんが、この「しんどい」という言葉の重みは出口が見えそうで見えないコロナとの闘いに立ち向かっている方の毎日を表していると思います。
イエスに従って歩む信仰生活においても「しんどい」と感じることは多いでしょう。イエスも「しんどい」と思ったかも知れませんし、私たちの全ての試練をご存知ですからきっと「しんどい」を理解してくれているのは間違いありません。 なぜなら、イエスが何度も何度も、「まことにまことにあなた方に言います」と繰り返しても弟子達は引き続きイエスの言動にピンと来ないのです。パリサイ人・律法学者はと言えば、こともあろうに御言葉に習熟しておきながら、神様の声を聞き逃して、いのちに繋がらない「宗教」を推し進めているのです。イエスも「しんどい」と思ったことでしょう。
そんな「しんどい」が現れている聖書の箇所があります。なぜかというと、次から次へと様々な出来事があり、気持ちが落ち着かないだろうと思える箇所です。感情上り下りが激しい状態を、英語で上手いこと表現しています。それは“Emotional roller-coaster” という表現です。直訳すると「情緒のジェットコースター」つまり、ジェットコースターのように感情が起伏することを表します。 次の箇所を読んでいたら、ああ、きっと弟子達はこのジェットコースターに乗ったような気持ちだっただろうなぁ、と思いました。弟子達は、「しんどい」と感じてただろうな、と想像しました。でも、イエスはそんなしんどい状況にあったにもかかわらず、人々に深いあわれみを持ち接して、癒して下さったと書かれています。なぜそんなことが可能だったのでしょうか?私たちもしんどい状況で同じようにすることが出来るのでしょうか?
参照箇所:マタイ 14:13-21; マルコ 6:30-44; ルカ 9:10-17; ヨハネ 6:1-15
かいつまんで出来事を記すとこうなります:
- イエスはヘロデと妻ヘロディアによりバプテスマのヨハネが斬首された知らせを聞きます。イエスにとって、ヨハネはいとこであっただけでなく、メシアとしての自分の先駆けとして、道を整える役割を持って生まれてきた大事な友だったのです。邪悪が正義を殺したのです。
- 同じ頃、イエスから使わされて神の御国を告げる宣教活動をしていた弟子達が戻ってきて喜びの報告がありました。
- イエスから「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と、休憩の命令を受けてベツサイダへと船で移動しました。しかし、それをかぎつけた群衆が先回りして彼らを待ち伏せしていました。
- 休息のひと時のはずのベツサイダでのレトリートが大集会になりました。
- その集会に集まった群衆に食事を出そうということになります。何千人も目の前にし、「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」とアンデレはついこぼします。
- そんな出来事があったすぐ後に、船で次の宣教地へと向かうようにイエスから言われ、弟子は漕ぎ出しました。すると嵐に遭遇しました。
- 嵐の中、水の上をスイスイと歩くイエスの姿を亡霊と思い恐怖に襲われたのです
- 目的地に着くとすぐ人が集まり始めました
もう次から次へと、気の休まる時がない!と思いませんか?
私が「しんどい」と感じる時は、物事が自分の段取り通り進まない時、つまりあちこちから中断する出来事が発生して、物事が制御不能に陥る時です。最初から何の準備がない方がまだマシです。なぜかというと、あれこれその場その場での対応をしながら切り盛りする方が慣れているからです。長年似たような職種についていると、アドリブで乗り切るのも一つの技術になっているからでしょう。
でも、問題は、あらかじめよく準備を整え、シミュレーションも頭の中で行い、よし、これならグッド、と臨んだ時に、何か妨げることが発生して、準備が台無しになったり、大きな調整が必要になるような時は本当に「しんどい」と感じます。ストレスです。だからと言って、いつもいきあたりばったりだと、やはり計画性がないこと自体がストレスになります。
特に、急ぎの仕事をしたり、急いで約束の場所に向かっている時に限って何か突発的なことが起きませんか? 私にはよくそれが起こります。それは「しんどい」ストレスですね。「しんどい」状態でいると、自分の心の余裕はなく、人の状況や心情に心を配ることが出来辛くなります。本来の目的である、人のためにお手伝いする、お膳立てする、ということが、心から喜びを持って行えなくなります。どんなにプロフェッショナルとして対応していても、心の中には台風が潜んでいるようです。
あるときのスタッフ祈祷会のことを思い出しました。ある牧師が祈りの中でこう祈ったのです。”We welcome interruptions throughout the day, as we see them as part of your plan” 「今日色々中断されることがあっても、それはあなたの御計画の一部として喜んで迎え入れます」という祈りです。えっ、そんなこと祈っちゃったら、本当にそうなっちゃうよ、と思ったのを覚えています。でも、そこに「しんどい」を乗り越える、しのぐ、秘訣があります。
先程の聖書の箇所ですが、ジェットコースターのような出来事が続いていましたね。折角休息の時を取ろうと弟子達とベツサイダに着いた時に、そこには大勢の人々が先回りして待ち構えていたのです。現代風にいうなら、やっと休める、と思ったら「ああまたあの人から電話だ、」とか、「ああまたあの苦情か、」とか、「どうして今までこのファイルを放っておいたんだ」また一からやりなおしだ、なんて普通はイライラするのではないでしょうか。弟子達は疲労困憊で、(船も自分たちで漕いだでしょうし)、おいおいもう勘弁してよ、なんて思ったんじゃないでしょうか。
ところがイエスは、彼らを見て、「彼らを深くあわれんで」(マタイ)「イエスは喜んで彼らを迎え」(ルカ)「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ」(マルコ)彼らの病気を癒された、と書かれています。到底「しんどい」と感じている人が自然と出来る応対でないでしょう。では、なぜそれが可能だったのでしょうか?
私にはその秘訣は「自分だけで寂しい所に行かれた」ことにあると思います。それはそこで休憩の昼寝した、というのではないですね。父なる神と充実した交わりの時を持ったのです。
「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」
(マタイ14:13a)
イエスの生涯は常に祈りが中心にあったのです。リクエストを父なる神に提出するためというより、父なる神との交わりのためだったでしょう。心が傷んだ時、イエスは独りで祈りの時間を持ったのですね。
現代の私たちにとっては、それは神に祈り、礼拝する時を指すでしょう。イエスと共に静かな時を過ごすことです。それは、主の祈りの「天にまします我らの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」という出だしの部分を個人的に祈り探り求める時と場所を設けるということを意味するでしょう。
そうでなければ、「しんどい」弟子達のように私たちは疲弊し、悪や死の現実の前に無力感を覚えるでしょう。
牧師が祈り会で祈ったのもこの主の祈りに近い気持ちで祈ったのでしょう。神様が送ってくださる状況・人々であれば、それを待ち望みます、と祈ることは、御国を来たらせたまえ、であり、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、の精神だと思います。
冒頭のコロナと戦う医療従事者の方達の報道では、別の方が、「もう使命感でやっているような」状態もあるとも語ります。私には、使命感がなければ到底出来ない仕事に就かれていらっしゃるのだなぁと思っていました。イエスもまた使命を持ち、使命に従って生きた方だと思います。
そして、寂しいところに行き、父なる神と交わる時、それはイエスがメシアとしての使命を再度深める時だったと思います。だからこそ、「羊のような」群衆を前にした時、あわれみを覚えられたのです。イエスにとっては、ナザレの会堂で読んだイザヤの言葉、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)という救い主の使命こそが、イエスの使命だったのですから。
「しんどい」時、どうかイエスと静かな時を過ごし、自分にとっての今の使命を確認してみてください。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(イエス・キリスト)
マタイ11:28-30
コロナの及ぼす影響はまだまだ続いています。現場で労苦される医療従事者の方々、感染したり、感染した家族をお持ちのみなさん、心を動揺させている方々にどうか物理的な支援が的確にタイムリーに与えられますように祈ります。そして何よりも深いあわれみを持って、イエスが今この時、あなたと共にいて下さって、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守って(ピリピ4:7)」くださるよう祈り求めます。