「あなたはイエスキリストがあなたの罪を赦すために死なれたことを信じますか。イエスキリストはあなたの救い主だと信じ告白しますか?」
「はい信じて告白します。」
「では、あなたの信仰告白に基づき、天の父、御子イエス、聖霊の御名によって洗礼を授けます。」
こう言うやり取りが30数年前に私とウェント牧師の間であり、私は洗礼を受けました。これは私がアメリカ留学中にホームステイ先の家族に連れられて行った教会で信仰を持った結果でした。
最初は滞在させて貰っている恩義、と感じ、連れられていくがままに教会に行き始めたのですが、1年ちょっとの間に色々なことを思わされ、信仰に導かれ、洗礼を受けることになったのです。信仰を持ってから洗礼まで結構月日が経ったのですが、それをシェアしたいと思います。連載中のルカの福音書での学びも、次回はイエスキリストの洗礼についてですので、今回は自分の洗礼についてシェアします。以前に書いた証からまとめてみました。
信仰を持ってしばらくは色々なことが新鮮で、教会での活動も楽しかったのですが、救われる以前にも教会では色々と関わりを持っていたこともあり、もの珍しいことはあまりなく、だんだん当初の感動も薄れて行ったように思います。(私は未信者であったものの、教会が好きになって、教会では最前列に座り、牧師の説教のノートをとり、青年会やイベント、教会のソフトボールリーグに参加とかしていたからです。信仰を持った後も同じようなことをしてました。)
そんなある日、ホストマザーから、「ねえ実君、あなたはどうして洗礼を受けないの?なんで躊躇しているの?あなた、まさか、チキンなの?」と言われました。
英語のスラングで、「チキン」と言うのは臆病者のことだ、とは知っていましたが、なんかそれを自分に使われることになるとは、と思ったことを覚えています。
「洗礼を受けることは義務じゃないはずだ」などと自分に言い聞かせました。「イエスに信仰を持っていれば十分じゃないか」と、ホストマザーに直接は言い返せませんでしたが(英語力不足もそうですが、きっとやっぱり自分は「チキン」だったんでしょうね)そんな風にして自己防衛をしつつ、自分を正当化・納得していたと覚えています。
でもホストマザーは根気よくチャンスがあるごとにこの話題を持ち出して来たのです。信仰に導かれたのも彼女の毎日のトークに励まされていたからだと思います。信仰を持った後も引き続き私に話しかけて来てくれました。
「あのね、イエス様も洗礼を受けたのよ。だから、洗礼を受けるって言うことは、イエス様にならって従う、と言うことなのよ。そこを考えるべきね。それともあなたはやっぱり「チキン」なの?」とたたみかけられるのはちょっと嫌だったです。そんなことを繰り返すうちに心は固くなったと思います。
残念ながら、突き詰めた質問を受け続けると、人は心を頑なにしがちです。私も、このように語りかけられ続けているうちに、心を固くし、だんだん、態度が悪くなり、彼女の励ましも、フンフンと聞き流すようになっていってしまいました。
しかし、ホストマザーも彼女の友人達もいつものようにお祈りに励んでいてくれていたと思います。(そう言ってくれてましたから本当です)そしてついに、私の心へ神様が働きかけるようになったのです。と言うか、私の心が神様の言葉に気づき始めた、と言うことでしょうね。それは誰かに言われたから、と言うことではなく、自分が気づき、神様がはっきりと示してくれるようになったと言うことだと思います。それはある聖書講演会を通してでした。
通っていた教会でその頃、2日間のバイブル・コンファレンス、つまり聖書の講演会がありました。きちんとクリスチャンライフを送っていると自負している、ちょっと気取っていた私はもちろん参加しました。このコンファレンスで神様に打ち砕かれるとは夢とも知らずにです。
イギリスから招かれて来た講師のジョン・ハンター先生は新約聖書ローマ書から「あなたの信仰に欠けているもの」と題して講演なさいました。今から思うとその講演に導いてくれて、神様ありがとう、としか言いようがありません。
ローマ書5章にこう書かれています。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
ローマ書5章8〜11節
ハンター先生は「ですから」「なおさら」「なおさら」「そればかりでなく」と言う単語に目を留められ、私たちは信仰の歩みを「今の状態を保つ」のは誤った考えである、と語りました。神様が私に、君はそこで立ち止まっていちゃダメだ、と語られたと悟りました。前進しなきゃ、と思ったのです。救われていることはまず最初の一歩です。神様と和解している、つまり関係が正しくされたことをしっかり理解して、イエスのいのちの中に自分が生き生きと信仰を歩み続けるんだと思ったのです。
さあ、イエスが私に語ってくれたので、今度は自分がそれに応える時だと思いました。このローマ書の8節から11節を手書きし、勉強机の上に貼って暗記したことを覚えています。おそらく聖書の箇所がこれほど自分の心を貫いたことはそれまでなかったのではないかと思います。
後から考えると、洗礼を受けてしまったらもう後戻りできないんだ、と言う漠然とした不安感があったと思います。それが一つのバリアになっていたと思います。それを神様にぶつけました。なぜなら、その不安感の裏側に、自己正当の気持ち、つまり、「救いには洗礼という儀式は必要条件ではない、」と言うようなことを言い聞かせようとしていた自分がいたことからも分かりました。聖書の真理は、しかし、イエスに従う、と言うことは公衆の面前で正々堂々とイエスを告白し、従う、と言うことが要求されると分かったのです。洗礼を受ける決心がつきました。
体が水に沈められ、牧師に引き上げられ、洗礼は無事終了しました。イエスの洗礼のように聖霊がハトのように飛び交うのを見ませんでしたし、神様の声もしませんでしたが、私は造りかえられたのです。洗礼後すぐに、本当に様々な方面において信仰を強めてくれる道が開き始めました。教会でも熱心に、喜びを持って、見せかけでない本心から活動に参加することが出来るようになりました。さらに、シアトルで、日本人のいる教会、同世代の学生や社会人とも交流が始まり、深く関わりを持ち、信仰を強め合う友人達にも恵まれました。多くの出会いがありました。
神様は恵みに溢れた方です。固くなで臆病で、人の目が気になりがちな私に、ホストマザーを通じて、神様は、厳しく、私の破れている現実を指摘しました。「なんで躊躇するの?チキンね。」と。そして聖書を通し神様は強く語ってくれました。「なおさら」が私の心を砕き、マザー達が祈って、恵みのうちに私が洗礼に導びかれたのでした。
今、あなたは立ち止まって、悩んでいませんか。「チキンね」と言われていませんか?どうか、神様の開いてくれる聖書のみ言葉に耳を傾けてみませんか。なぜなら、ローマ書にあるごとく、それは「大いなる喜び」につながるからです。義務ではなく、必要条件だからでもなく、イエスは私たちに「いのち、しかも豊かないのち」へと導きたいと願われていらっしゃるからです。