ハウリングはマイクとスピーカーによって起きる現象です。 マイクの音を増幅させスピーカーを通して聞こえるようにしますが、マイクとスピーカーが近いと、スピーカーから出る音をマイクが追加で拾って、さらにアンプで増幅されて、、、ということが繰り返されると普通はキーンといういやな音がスピーカーから鳴り響きます。これがハウリングという現象です。「ハウる」とか「フィードバック」とか言われています。

先日私の通う教会の牧師が日曜の礼拝説教で、現代人は頭の中で「不安と恐れ」がハウリングしているのではないか、と言うのです。不安・恐怖心があり、それが対処されないままでいると、ハウリングの悪循環が起きる、と言うのです。不安と恐怖がハウリングし、こだまのように反響し続けるのです。

これは誰にとっても問題です。なぜなら、わたしたちのデフォルトは恐怖と意気消沈だと思うからです。どんなに素晴らしい体験をしても、どんなに嬉しい思いをしても、ふと、将来の不安が心をよぎったり、友人の何気ない一言で傷ついてがっかりしたり、、、頭と心にハウリングが始まるんです。

聖書には何か助けがあるでしょうか?

旧約聖書の申命記34章では、イスラエルの民を奴隷から解放し、荒野の旅路を導き、神と人との仲介者として活躍したモーセの死が記録されています。これほどまでに偉大な預言者は後にも先にもいない、と書かれています。そんなにも偉大なリーダーが、まだ神様から示された約束の地に入る前に亡くなってしまったのです。 イスラエルの民のそれまでの荒野の歩みを見ると、ここでまた不安と恐怖のハウリングが聞こえてきそうです。

しかし、申命記34章を一ページめくったヨシュア記に助けのヒントがあると思います。

ヨシュア記では、モーセのリーダーシップをヨシュアが引き継ぐ場面が出てきます。1章には

ただ強く、雄々しく(7)
強くあれ。雄々しくあれ。(9)
ただ強く、雄々しくあってください。(18)

と強く、雄々しくあれ、とヨシュアは神から、またイスラエルの民から激励の命を受けるのです。心がくじけないよう、恐れを持たないように、強く、雄々しくあれ、と神は命じます。

恐れてはならない。おののいてはならない。(9)

2017年も終わりになりました。来年はどんな年になるのでしょうか?いや、次の1時間は、1分には何が起きるのでしょうか?私たちには分からないのです。 不安に思うな、恐れるな、心を騒がせるな、強く、勇敢に生きるんだ、と自分に言い聞かせてもその効果は付け焼刃的にしかすぎないのです。

「神無き不信仰の恐れ」に対して神無き勇猛果敢では勝負にならないのです。

神はこう語ります。

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5)
あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(9)
あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あたなとともにおられますように。(17)

神様が臨在する、ということが大前提なんですね。神がともにおられる、だから、恐れなく、強く雄々しくあれる。というのです。ヨシュアはすでにそれまでに強く、雄々しいことをモーセのもとで示してきました。しかし、神は人の心をよくご存じです。私たちはどんなに過去に素晴らしい行い、業績、結果を出していても、未来は私たちには分からないのです。

また、神のみこころを知り行動するためには、御言葉から離れてはならないのです。つまり、聖書を通して神様をより深く知ることが不可欠です。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。(8)
言ったことばを思い出しなさい。(13)
まとめると、神様が共にいる、という現実を理解し心に信じ、み言葉によって関係を強められ、恐れと失望を捨てて強く雄々しくすると決断する、これが次の一歩に大事だ、というのです。

クリスマスで「インマヌエル」という言葉を聞いたでしょうか。神ともにいます、という意味ですが、イエス・キリストがインマヌエル、すなわち、神共にいます、と名付けられた、子なる神です。そのインマヌエルなるイエス様はこう語ります。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)

新年を迎えるという時期は心の向きをリセットする良い機会かもしれません。イエス様がともにおられるという現実の中、み言葉に親しみ、イエス様と益々交わりを深め、行動において彼に聞き従い、不安や恐れを捨てさり続け、強く、雄々しく、一歩一歩、信仰の歩みをもてる一年になりますように。