私の通う教会では今アルファコースが行われています。ちょうど「どうやって祈るの」と言うセッションに差し掛かってきました。神様のことを考える時、祈る方法とか気になりませんか?

子供の頃、よく飼い猫が屋根の軒下に登ってしまい何か、降りにくそうにしているのを見て、お祈りしたことを覚えています。クリスチャンではなかったので、とりあえず何か祈った、と言う感じでした。

田舎のおばあちゃんは仏教だったので、よく数珠を持って念仏を唱えていました。おばあちゃんの家には仏間があり、太鼓とか鐘とかあって勝手に叩いたりして、ふーんこうやって祈るんだ、などと納得してたこともありました。そう言う道具を使って、仏壇に向かってするのが祈りだ、と思ったのでした。

大学生になり、アメリカに留学した時の最初の晩、ホームステイの方に教会に連れて行かれました。それは水曜日の祈祷会でした。「ああ、お祈りね」と思いました。どうやればいいのかな、なんて時差ぼけの頭で考えていたら、何と、なんの前触れもなく、みんなが目を閉じ、頭を垂れて祈り始め、円になって座っていた皆が一人一人順番に祈っているのです。どうしようもないので、自分は黙っていましたが、何であらかじめお祈りの仕方を教えてくれなかったんだろう、と思いました。その時は祈りはまるでお辞儀とか、正しい電車の乗り方とか、そんなレベルの行動の一つと考えていたのでしょう。「やり方」さえわかれば祈りだって野球のようにマスター出来るのに、と思ったのです。

クリスチャンになり、先輩の信者から色々手ほどき(コーチング)を受けて少しづつ、祈りはマスターすべき儀式ではなく神様と話すんだ、と教えてもらいましたが、頭で分かるのと実際に自分のものにするのは時間がかかるばかりか、常に前進あるのみ、と言う現在進行形のことなんですね。

先日ユージーン・ピーターソンのデボーションに祈りについて書いたものがありました。ちょっと新しい考えを与えられたので、「想うこと」でシェアしたいと思いました。翻訳は相変わらず私の意訳です。原文もつけておきます。

「もし誰かに、「祈り方を教えてほしいんだ」とお願いされたら、私はこう答えます。「それでは、この教会に日曜朝9時にきてください。」祈りはそこで習うことが出来るのです。

祈りは神様の語る言葉への呼応でなければならないからです。聖書の言葉が読まれ、礼拝説教が語られ、聖餐や洗礼の聖礼典を共に喜び祝う、そうやって礼拝を守る会衆にあって、祈り方を習い、祈りを実践するからです。そこから祈りが生まれ出るのです。そして、そこから私は隠れたところ、山に入ったりして祈り続けるのです。

If somebody comes to me and says, “Teach me how to pray,” I say, “Be at this church at nine o’clock on Sunday morning.” That’s where you learn how to pray. . . .

Prayer has to be a response to what God has said. The worshiping congregation—hearing the Word read and preached, and celebrating it in the sacraments—is the place where I learn how to pray and where I practice prayer. It is a center from which I pray. From it I go to my closet or to the mountains and continue to pray.

ユージーンピーターソン、ユダの手紙20節について

何が新しいアイディアだったかと言うと、祈りがコミュニティーの中での神様との呼応からスタートする、と言うことです。「祈りは結局神様と自分じゃん」、と考えていた私にとってはちょっと驚きでした。「信仰は個人的さ、教会なんていらない、自分さえ神様につながっていればいいさ」と言う個人主義の信仰はどこかひずみがあるのです。確かに神様は私たち個人の祈りを聞き、語られます。でも豊かないのちが育まれるのはコミュニティーの中だと想わされました。そして祈りも同じなんだと思います。

ユージーン・ピーターソンが参照したのはユダの手紙17〜23節でしたが、その手紙は「友たちよ」とコミュニティーに対して書かれています。「メッセージ」版を私の意訳とともに紹介します。

「親愛なる友である皆さん、どうか覚えておいてください。我らが主イエスキリストの信徒達は必ず、「終わりの日には、神様のことをこれっぽっちも真面目にとらえないもの達が現れる。そして、あざけり、自分勝手な気持ちと欲望に基づいたことを信奉するようになる。」と語った言葉を覚えていて欲しいのです。こう言うやからは教会を分裂させます。自己中心だからです。聖霊のかけらも彼らには見当たりません。でも、あなた達は、私の親愛なる友たちよ、どうか聖霊にあって祈り、神様の愛の真っ只中にとどまり、手を大きく広げて主イエス・キリストの憐れみをいつでも受けられる用意をしながら、慎重に聖い信仰を培っていってください。これこそ終わることのないいのちです。本当のいのちです!信仰がまだはっきりしない方達には厳しくあたらないでください。しかし、誤った道を選んだもの達にはきっぱりとした態度で臨んでください。罪びとに対しては優しく接するべきですが、罪を軽んじてはなりません。罪の悪臭は天の高みまで漂って行ってしまうからです。」

But remember, dear friends, that the apostles of our Master, Jesus Christ, told us this would happen: “In the last days there will be people who don’t take these things seriously anymore. They’ll treat them like a joke, and make a religion of their own whims and lusts.” These are the ones who split churches, thinking only of themselves. There’s nothing to them, no sign of the Spirit! But you, dear friends, carefully build yourselves up in this most holy faith by praying in the Holy Spirit, staying right at the center of God’s love, keeping your arms open and outstretched, ready for the mercy of our Master, Jesus Christ. This is the unending life, the real life! Go easy on those who hesitate in the faith. Go after those who take the wrong way. Be tender with sinners, but not soft on sin. The sin itself stinks to high heaven.

The Message, Jude 17-23

祈りについてはこちらのアルファコースも参照してみてください