読む前の要点:
- あなたは、どこかで祈りを暗記した経験はありますか?
- 祈る事とお呪いはどう違うと思いますか?
- 祈る事に様々な形があるなら、どんなものがあると思いますか?
とうやって祈るのか
「神に祈る」と言うフレーズから関連する事はありますか? 恐らく多くの人は、ミッション系の幼稚園や学校で暗記した祈りを思い浮かべるかも知れません。その学校や幼稚園で生徒達が覚えやすい様に書かれた祈りも多くあるでしょう。イエスキリスト御自身が弟子達に教えられた「主の祈り」 (マタイ6:9-13、ルカ 11:2-4)、そして他にも聖書の中には数多くの祈りが書かれてあります。また教会によっては「祈祷書」と言う書物があって、祈りを読み上げたりもします。実際にその祈りが神に受け入れられるかは、当然その人の心が口から出て来る祈りを本当に意味しているかに掛かってくることは言うまでもありません*。これらの祈りは「おまじない」のように扱うのではなく、その人の心を表す助けとなるものなのです。
*イザヤ29:13、マタイ15:8
「主の祈り」とは?
イエスは「主の祈り」をただ唱える様に教えたのではなく、神に祈る時ここに出てくる要素が必要だと語られたと考えられます。 つまり、「主の祈り」は祈りの青写真、又は骨組みとして祈る事が出来ます。一つの例として以下があります。
「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
=御子イエスを通して父なる神に話かけます。心を神に向ける事、集中して祈る事への助けを求めます。
「御国が来ますように。」
=自分中心から、神中心の心になれる様に助けを求める。(自分の人生に「自分の支配」ではなく、神の支配を求める)
「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
=身の回りの人や事柄、また世界のあらゆる状況に関して神の御心が行われますよう祈る。
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
=必要や願い事を神に祈ります。
「私たちの負いめをお赦しください。」
=今、自分の意識にある罪を悔い改めます。また意識にない罪も神の心を痛めている自分の思考や行動があるなら、それをを明らかにしてくださるように祈る。
「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」
=この時点で人を赦せていなければ、それができるように祈れます。
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
=人の心を神から離そうとする悪の力から守って下さるように。聖霊の助けでそれを見抜き、打ち勝てるように祈る。
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」
=祈り終わる時、自分の心を神は聞いてくださったと信頼して 最終的に全てを神に委ねます。
「アーメン。」
= 「アーメン」と言う言葉はヘブル語で「誠に」とか「その通りです」と言う意味があります。 数人で祈る時は人の祈りに合意する時に「アーメン」と神につぶやいたり、個人でも、この言葉で最後に閉じたりするのは全世界の教会やクリスチャン達の共通の風習になっています。
様々な形の祈り
A: 時間をとって
イエスキリストは、奥まった部屋で神と一対一で向き合って祈る大切さを語られました*。できるだけ一日に一度はこの様な形でしっかりと神との時間を取る事が大切です。 その時間の長さは人それぞれ、その時の状況にもよりますが、この時間に「主の祈り」の構成で祈る事も理想的です。
*マタイ6:6
B: 様々な時と場所で
声に出しても出さなくても、自分のそばに友達が立っているかの様に神に話しかける事ができます。
■ 聖書を読んだあと感じたことなどを話す。(「ディボーション」と呼ぶ。)
■ 困った状況や危険に迫られた時に助けを求める。
■ 勉強や仕事にかかる前にしっかりと集中してベストが尽くせるように助けを願う。
■ 物事に関しての自分の考えをつぶやく。
■ 心が傷ついたとき、神に嘆く事ができる。
■ 嬉しい時、感謝ができる。
■ 美しいものを見て神を賛美できる。
等々。
C: 沈黙の祈り
何も話す事が思いつかなくても、そんな気分になれなくても、神の前に沈黙する事ができます。神の臨在(りんざい ― その場に居られる事)神の愛と優しさに浸って心を休められるのです。
D: 複数の人と心を共にして
個人で神と交わる事の次に重要な事は、イエスキリストにあっての兄弟、姉妹である他のクリスチャン達と祈る事です。神はクリスチャン達が心の一致をもって集まって祈る事を特に喜んでくださいます*。
*マタイ18:20
気兼ねなく
一人の困った兵士の話をご存知でしょうか? アメリカの南北戦争の最中、一人の兵士がどうしても実家に戻る事が必要だった時に軍からの承諾をもらえず、最後の手段としてリンカーン大統領直々に会って話を聞いてもらおうとしました。ホワイトハウスまで来ると、当然の様に門前払いでした。 彼はホワイトハウスの外で腰を掛けて途方に暮れてると、一人の少年が来て彼が何故泣いているのかと尋ねます。その子に訳を話したところ、男の子は「ついて来て。」と言ってその兵士の手をとり、ホワイトハウスの中をズンズンとガードマン達の前を通り過ぎます。 そして、ミーティング中だったリンカーン大統領の部屋の扉をノックもせずに開け、「パパ、この人が話がしたいんだって。」と彼の父である大統領に話しかけたのです。 その子の大統領の息子としての特権が、この青年をリンカーン氏との対話の機会をもたらしたのです。
この話は、父なる神のところへ「祈る人を連れてくる」御子イエスの姿を映し出している様です。 イエスの十字架での犠牲の結果、神の王座と人との間の隔てが無くなり、神は私たちを大きな愛を持って待ち構えていてくださるので、丁度子供が親に語るように気兼ねなく祈る事ができるのです。大き過ぎるも小さ過ぎるもなく、人はどんな事でも神の前に持ってくる事ができるのです。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
ヘブル人への手紙4:16
参考リンク: