お知らせ
このブログシリーズは、リージェントカレッジのリフレームコース及び、CA Church で開催された文化と信仰のコースを基にして作成した日本語でのバイブルスタディーを基盤にしています。リージェントカレッジのリフレームコースの本編の紹介、ストリーミング及びダウンロード出来るビデオコースはこのリンクからアクセスしてください。
クリスチャンとしてのアイデンティティー
考えてみませんか?
- 「自分らしく」生きよう!よく聞くフレーズですが、それはどう言う意味をもち、どんな結果や行動を生むのでしょうか?
- クリスチャンにとって、「自分らしく」生きると言うのは、どう言う生き方であるべきでしょうか?
- クリスチャンになって、どのようにそれまでと生き方が変わったところがありますか?信仰が物の見方や考え方にどんな影響を与えて来ていますか?
- 信仰のゆえに、新しい問題や、生きる上でむつかしさが出てきましたか?
- この世の流れに合わせて生きる(迎合)ほうに流されたり、または正反対に、世に背を向け、クリスチャンの交わりだけに重きをおく(隔絶)ような生き方にしたい、と思うような時はどんな時ですか?
クリスティーンのストーリー
ローマ書12:1-2を読みましょう。「この世にあるが、世と調子を合わせない」がメインのポイントです。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
ローマ書12:1-2
クリスチャンになると、自分はいったい何者かというアイデンティティーについての新たな疑問が出て来ます。それは、救われる前の自分と、今の自分、そして(目標として)」自分がイエス・キリストにあって、どうあるべきか、。。。それらのどれが自分のアイデンティティーなのか、という悩みです。 加えて、この世の世界観「ストーリー」が、私たちを混乱させるのです。世のストーリーは、自分自身に目をむけさせようとします。イエスから目をそらさせ、私たちがイエスを見失うように誘惑してくるのです。
私は一体何者?
問いかけ自体は何も目新しくありませんが、答えようとするととても大変だとわかると思います。この質問に何かしら答えをもっていないと、人生を歩むうえでは困難に面します。なぜかというと、自分が誰か、と理解することが自分はもちろん、周りの人々を理解することに大きな影響を及ぼすからです。
歴史を通じて、どんな時代でもアイデンティティーの質問はありましたが、特に現代以後は答えを得るのが難しいように見受けられます。なぜでしょうか? まだまだ教育が欠如しているからでしょうか?十分理知的になっていないからでしょうか? 知性に満ちて、高い教育で著名なあのナチス・ドイツの横暴さを考えると、教育や知性では解決できないものではないか、とわかります。
20世紀後半に、物を理解する、という枠組みが様々な方向に細分化し、統合性を欠いてしまったため、確実なるもの、というものがあることを疑う時代となってしまいました。それが意味喪失につながり、アイデンティティー危機へと進んでしまったのです。
これは、人と人とのつながりに悪影響を与え、霊的な生き方を弱めていったのです。
現代のアイデンティティー危機における4つの特徴
それぞれの特徴と、クリスチャンとしての応答を見てみましょう。
1. Dislocation 断絶
主旨:アイデンティティー危機のもたらす「断絶」は、すべて伝統的なことに対して懐疑的で、過去の歴史も未来も、現在から切り離して考えようとします。
世代から世代へと受け継がれているストーリーは受け入れられません。自分のアイデンティティーに何が起きるかというと、時空から切り離されてしまうということです。 現在の自分があるのは過去があり、将来への展望があるからこそ、現在の自分がある、というはずの流れが分断されます。
考えてみてください。もし人が過去の記憶を失えば、それは記憶喪失症です。アイデンティティー危機のもたらす断絶が、私たちを現在を過去からも未来からも切り離し、失っているとすれば、私たちの属するコミュニティーが病に侵されている、と言えるのではないでしょうか。
ジョージオーウエルいわく、「民を滅ぼすもっとも速やかな方策は、彼らの歴史の知識を彼らから取り去ることである。」
私たちのこれまでの歩みがわかっていなければ、これからどのような未来に歩んでゆくのかを計るのはあまりに大変です。
アクトン卿いわく、「過去の知識は羅針盤のようなものです。それを失くしてしまったら、風に吹かれさまよい、自分がどこに位置しているのかわからなくなります。」
クリスチャンとしての大きなストーリーは、過去・現在・未来がきちんとつながったものです。それが究極の現実をおりなします。 記憶を失わず、取り戻すべきです。
2. Invention 作りごと・でっち上げ
主旨:私たちには自分が誰になりたいか自分で決める権利がある。消費・購買を通じて自分のアイデンティティーを形成しようとする。
この世の教えの一つが、自分が自分のアイデンティティーを作り上げることが出来る、というものです。自分が決めるものだというのです。消費主義に通じるものがあります。売り買いを通じて、自分のアイデンティティーを自分がそうしたいように作っていくのです。
皮肉にも、私たちの文化においては一人一人はユニーク、つまり自分はほかの人とは違う、ということが基底にあるのですが、もし自分のアイデンティティーは何かしらどこかで宣伝されている、ブランド化されたものを購入することで作り上げるとすれば、それはすでにユニークなものではないということです。
また、キリスト教の福音と物質主義とは相いれません。なぜなら、キリスト教の教えでは、常に「存在。。。にある」が「行動。。。をする」より先に来るからです。神の愛の中に創造されるのが先で、何かを得たり、消費するのはそのあとですから。私の尊厳はわたしが何をするか、には依存していません。 イエスを知り、イエスから目を離さないでいれば、自己を得るように頑張る必要などないのです。ありのままでイエスのもとにくれば良いのですから。つまり、私は、私に与えられるものを感謝と平安をもって受けるだけでよいのです。
3. Fluidity 流動性
主旨:私たちのアイデンティティーは、世俗のファッションや流行に応じて常に変化する。常に、「自分は、今は、何者だろう」と自問する。
現代社会においてアイデンティティーは固定されたものではなく、不安定で、技術革新が続いて人間社会の決め事に変化があれば、それに応じていくらでも変わりゆくものである。アイデンティティーはこの移り変わりになんとかついてゆくものとなっている。道理で自分が誰か、わかりにくくなっているわけです。
「私は何者か?」と常に尋ね続けるのです。本来はアイデンティティーは私たちに不安を解消させるものですが、逆にそれが確定しないので、常に不安で落ち着きません。アイデンティティー作りの虜になっています。
そして治まることのないアイデンティティー作りに心を奪われ、実は私たちの魂がこれに統治君臨されてしまっているのです。
まるでハロウィンの衣装のようにとっかえひっかえするようなアイデンティティーになっています。自分を失い、不安感に苛まれます。
クリスチャンの見解としては、私たちが確証を持つのは、イエスキリストは昨日も今日もそしてとこしえまで変わらぬお方である、ということです。かれは私たちの人生においてつねに一定で、真実なる方なのです。どんな時代でも、イエスは変わらぬお方なのです。
4. Constraint 足かせ
主旨:個人的にはどんなアイデンティティーを選んでもよいのに反し、公的には他と適合せねばならない、ということが葛藤をもたらしている。
もし私たちが自分が作った、他と違うアイデンティティーを持っていたとすると、それはほかの人とぶつかり合うことになるのではないか?
このような社会において、支えになるのは、中立性や寛容を用いた表現です。政治上でよく聞くものですし、鉄則ともいえます。あなたは、個人的には何をアイデンティティーとして選んでよいが、それはあくまでも私の選択の妨げにならなけらばの話である、といった具合にです。
それではこのような、私的には「なんでも自分の好き放題」でありながら、公的には「他者と適合し波風をたてない」という生き方をしようとするなら、それは何と引き裂かれた生き方で、自分を傷つけるものでしょうか。
教会はこの私的な世界と公的な世界の境界線にあるようです。クリスチャンとしてこの2つの世界を統合しようと努めます。ところがこの社会はこの2つの世界は引き裂いたままにしようとするのです。ですから、この世はクリスチャン達に、信仰は私的活動にとどめよ、と言うのです。
クリスチャンとしての私たちの出発点は常に、私たちは存在している、(”I AM” )でなければなりません。イエスがわたしはあるもの、(I am that I AM)であるがゆえに、私たちもある、と言えるのです。
キャスティング・クラウンズの「Who I am」という曲の歌詞にこうあります。
Not because of who I am
Casting Crowns, “Who I Am”
But because of what You’ve done
Not because of what I’ve done
But because of who You are
I am Yours! Whom shall I fear, ‘cause I am Yours
(意訳)
私が誰であるか、ではなく
あなたが何をなされたのか
私が何をしたのか、ではなく
あなたが誰であるのか、によって私はあなたのものなのです。
私があなたのものであれば、誰をおそれることがありましょう。
ディートリッヒ・ボンヘッファーは『わたしは何者なのか』という獄中詩で、他人の見た自分と、自分の知る自身の中の葛藤を描き、最後には勝利のなかにこう語ります。
「私は何者か? ただひとりでこう問う時、その問いは私を嘲(あざけ)る。私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ。」
(村上伸『ボンヘッファー』清水書院、1991 より。)
あなたは自分のアイデンティティーはどこに・何に見出すでしょうか。住んでいる場所ですか?服ですか?仕事ですか?あるいはどんな家に住んでいるか、でしょうか。
クリスチャンとしてしっかりとするべきことは、聖書のストーリー、つまり時を超えておりなされている神様のストーリーに根ざすことです。
ローマ 12:1-2を再読しましょう。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
ローマ書12:1-2
考えてみましょう
- 冒頭のビデオに出てきたクリスティーンは、自分のアイデンティティーが形作られてゆくことに、どんな悩みを持っていましたか。似たようなことで悩んだことはありますか。
- 私たちをとりまく文化からどんなメッセージが伝わってきますか?この世が教える幸せ、充実した人生とはどんなものですか?
- 「自分らしく」あるいは、「心の導くままに」生きること、は得てして、自分のアイデンティティーを内側から見つけ出そうとします(ビデオの中に出て来た「玉ねぎをむいていくようなもの」でしょう。)現代文化の「自分らしさ」と聖書の語る自分らしさ、すなわち真の意味での人間性を持って生きる、ことの違いを説明するとしたら、どのように語ったら良いでしょうか?
- 自分のアイデンティティーはキリストに根ざしていることを確認し、確信することは可能でしょうか?