知るための許容力

「政治について喋りだすと止まらなくなる事が私の問題なんだよ。」 同僚の女性のその言葉は私を笑わせました。確かに彼女は止まらなくなるのです。私と彼女は政治的な視点や世界観で同意できる点が多く、チャンスがあると色々と語り合う仲なのです。が、そこには確かに「温度差」とも呼ばれるテンションの違いがあります。物知りの彼女が話し出すと、「これでもか」と言わんばかりに次から次へと多くの情報や課題が飛んできます。そして彼女は休憩時間や昼休みは必ずと言えるほど、スマホとイヤホンで一人で政治ニュースを聞いていると言う状態です。それを見る度に私はいつも、「すご…」と感心させられるのです。

彼女の言葉で印象に残ったものがあります。それは、「政治の話を避けようとする事は、面倒がっているだけで、無責任で怠け者の思考なのだ」と言う線のものでした。「目の前の事しか見ていなくて、今さえよければ良いと考えているだけで、自分や子孫たちの将来に関係してくる事柄に対処しようとしていない」と言うのです。「一理あり」と思わされます。それを踏まえて、私は自分が彼女のレベルで同じように世界情勢を追求していく姿を想像してみましたが、やはり自分にはそこまでの許容力はなく、自身の精神の方が心配になるのでした。知識やスタンスを追求するに伴う許容力にも個人差があるものだと、ヒシヒシと感じされます。

その反面、巷では度々「気が滅入るから、私はニュースなんて観ないわ」と発言する人にも出会うわけです。そして「それもどんなものか」と考えさせられるのです。そっち方面で極端になってもまた、私の同僚が言うように、「無責任で怠け者」と言うことになる場合もあるでしょう。

「程よい」は錯覚?

そうなってくると、やはり「程よい程度に」と言う結論に至るのが成り行きなのでしょうが、どうなのでしょう? 人はおそらく、無意識のうちに個人で興味を持つ事柄と持たないもので情報量を調整したり閉め出したりと、偏る傾向を持つでしょう。そしてその一方では、目を逸らすことができないような社会現象やニュースもどうしても入ってきます。そんなふうに「程よいバランス」と言うコンセプトには基準と言うものが欠けている錯覚なのではないでしょうか?

神様は何と言う?

それならば、神様は私たちが情報や多くの意見が渦巻くこの世界で、どのように生きる事を望まれるのでしょうか? こんな事を考える中で、主イエスが弟子たちに言われたことばを思わされます。

「わたしには、あなたがたに話す事がたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」 

ヨハネ16:12

主イエスは弟子たちの心の限界を知っておられたのです。やはり人にはそれぞれ情報を吸収する許容量の限りがあると言う事を、私たちを創られた神ご自身も当然ご存知で、なんでもカンでもガンガン追求したり対処したりする事だけを望んでおられる訳ではないのだと理解できます。

聖書の多くの箇所で、この課題に対する指導を見つける事ができるでしょう。エペソ5:13〜17もその一つです。以下にこの箇所の大まかな要点を箇条書きにします。

隠れた事を明るみに引き出すのは神の光である。

  • イエス様が弟子たちに話す事を待たれたように、主は私たちにもそれぞれの歩みに合わせて必要な事柄をその都度、明るみに引き出してくださる。

眠っていないで賢く歩みなさい。

  • 心が神の事柄に対して鈍くなってしまわないように、神を恐れ、主イエスに常に繋がった人生を賢く歩むように。(箴言9:10、マタイ10:16等)

機会を十分に生かしなさい。

  • 神の御心を歩むに携わるものや事柄を大いに生かすように。情報、知識、知恵、時間、物質的なもの、自身の許容力などを含めて、それらを十分に生かして生きるように。

悪い時代である事を意識しなさい

  • ナイーヴにならないで、悪魔が押し付けてくる世界観を受け付けないように、主イエスとの繋がりから離れないように。(マタイ10:16、ヨハネ15:1〜13、ローマ12:2等)

主の御心が何なのかを悟りなさい。

  • 聖書のことばと聖霊の導きによって、人はそれぞれ主の御心を悟る事ができる。

フォーカス

突き詰めるところ、「何処に焦点を定めるか」が重要なのだと確信させられます。自分が神様の御心を歩みに当たって、どこにフォーカスを置くべきなのか、何が目の前にあるのか、聖書はそれらについてどう語っているのか、今自分が神に従うとは何を意味するのか等と言う課題を追い詰めていく事が、このエペソ書で言う、「主の御心を悟る」と言う事なのではないでしょうか。(関連記事:「導きに備える」「導かれると言う事」)

押し寄せてくる様々な情報が真実なのか嘘なのか、今の自分に必要な事柄か、祈る事が必要か、それともただの重荷になってしまうものなのかが、主イエスの愛と導きに焦点を置く事で それを見定める力も神が与えてくださるのだと確信しています。わたしはクリスチャンである故に、様々な世界の動きの中でも神様の御心に焦点を置く事と、主イエスとの交わりにある平安、そして神が用意してくださっている未来と言う素晴らしい約束の中で、喜びと平安を持って生きる事を日々選んで歩む - それが私のフォーカスこと焦点なのです。