先日日曜の礼拝説教を聞いていた時に牧師の語ったことばにまた引っかかってしまいました。その言葉を聞いて、頭に浮かんだのは「金太郎飴」でした。どこを切っても金太郎、というのがキャッチフレーズですね。
説教はダニエル書6章からでした。ご存知の方も多いのでは、と思いますが、ここでは、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれる、という記事が書かれています。バビロンを征服したメディアン帝国のダリウス王が出した勅命に対する反逆罪、ということで放り込まれたわけです。 日曜学校などでよく紹介されています。 何とこの頃ダニエルは80代でした。実務バリバリで、神様に従って働くダニエルは何事にも卓越し、王から認められ、彼を帝国全体を司る地位を与えようと考えていたので した。 それを妬んだ者たちが王をそそのかして勅令を出させたのです。 全体のストーリーはぜひ聖書を開いてみてください。
その説教の中で、牧師が「誠実」という言葉を引いてダニエルの人格を、信仰を説明しました。英語では”Integrity” という単語で、実際ちょっと日本語に訳しにくい言葉の一つです。牧師は、この「誠実」というのは「一つであること」が語源である、と言ったのです。それで「どこを切っても金太郎か」、と思ったのでした。
ダニエルはその置かれた地位でも、環境でも、年令でも、いつでも神に対して「誠実」を貫いたのです。 事実この獅子の穴事件のころは、80歳を過ぎた老齢で、現代的に言えば、もうそろそろ楽な生活、信仰も「リタイヤ」 してはどうか、ととっくに思う年齢だと思います。 でもダニエルは「誠実」でした。決して惰性で流して行こう、とは考えていませんでした。 山あり谷ありの人生でも常に神様に対して誠実を貫いたのです。 現代に当てはめて考えるなら、教会生活でも、家庭でも、職場でも、学校でも、 どこを切っても神様に対しての真実が変わらない、 というのがダニエルの生き方だったんです。
当然悪魔はこんな信仰を持たれるのは嫌です。そこで企てを図ります。 彼は私たちが罪に陥るようにささやくのです。 信仰を持ってまだ新しければ、大抵、今までの生活に後戻りしてしまうように、誘惑を仕掛けてきます。 悪習慣や良くない環境、友人関係などへ引き戻すようにそそのかすのです。 または、信仰が円熟している者たちに対しては、ちょっと手が込んでいますが、自分の自信のある分野を使ってささやきかけてきます。それは、「自分の力で出来るではないか」というそそのかしや、「もうそれくらいでいいのでは」という妥協のささやきです。 神様に頼らなくても生きて行けると思うようにそそのかし、騙すのです。罠です。
ダニエルの「誠実さ」は、毎日日ごとに新しく、 神様に真実に生きる歩みを続けることなんですね。 牧師は次のヘブル書のみ言葉で説教のまとめの祈りをしてくれました。金太郎飴でいられるための秘訣はイエスから目を離さないでいる、ということに尽きるのです。
ヘブル12:1−3
こういうわけで、このように多くの証人たちが、 雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、 いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではあ りませんか。信仰の創始者であり、 完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、 ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。あなたがたは、 罪人たちのこうような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。 それは、あなたがたの心が元気を失い、 疲れ果ててしまわないためです。