読む前の要点:

  • あなたのイスラエルと言う国に関しての印象はどんなものですか?
  • 神はなぜ、ヘブル人(イスラエル人)が40年も荒野をさ迷うように仕向けられたのだと思いますか?
  • 神が定めた律法は誰にも守る事ができないのであれば、律法は何の為にあるのだと思いますか?

なぜイスラエル? その1

旅行に出かける時、人は色々と計画をして数ヶ月前から目的地でのあらゆる予約を取るでしょう。そうしないで旅行に出かける事はかなりのリスクが有るからです。人間の世界では、どんなに遡っても一年前ぐらいの予約が早い方なのでしょう。ところが、神が御子をこの世に送られるためには、数百年、数千年と言う規模の「予約」だったと言えます。神は、真に神を求める人間達が救い主が来られた時、彼を見定める事ができる様に人々の心を備えるため、御子が来られる場所を準備されました。それがイスラエルと言う国なのです。

創世記11:10~、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記より

アブラハム

紀元前2091年辺りに*神は、「ウル」と言う名の土地からアブラムと言う名の人物を、御自身がこれから創り出そうされていたイスラエルの民の父祖として選び出されました。神はアブラムに生まれ育った土地を後にして神が示す場所へ移動する様に命じます。行き先も分からずにアブラムは神に従って妻と甥、家畜やしもべ達を引き連れて自分の故郷を後にしました。神は「カナン」と言う地方のシェケムという土地にアブラムを導きます。その地で神は、アブラムにその地を与え、星の様に多くの子孫を与えると約束されました。後々神はアブラムの名前を「アブラハム」とつけ直します。

*NIV Study Bible 1987 注解覧

ヤコブ

「イスラエル」と言う名は、元々はアブラハムの孫にあたるヤコブという人物に神が新たに名づけた名前でした。ヤコブ(イスラエル)は、一人の娘と12人の息子達を授かります。一端は離れていたヤコブの家族もゆくゆくはカナンの地に落ち着きますが、この頃はその地の所有者ではなく、寄留者として過ごします。

エジプト入り

ある時、12人の息子達の一人でヨセフと言う17歳の息子が10人の兄達からの妬みから遠いエジプトに奴隷として売られてしまいます。しかし、神の不思議な導きで後々ヨセフはエジプトのパロ(王)の代理役を務める大者になります。

ヨセフがパロの代理となって何年も経ってから、干ばつの為カナンの地を含む多くの地方に食料危機が訪れます。その時点で既に70人余りに増えていたヤコブの一族は、食料の備えがあったエジプトに移住します。ヤコブが、「死んだ」と聞かされていた愛する息子のヨセフと長い年月の後に再会するシーンはとても感動的です。彼らは「ヘブル人」と呼ばれ、ヨセフの家族だと言う理由で、エジプトの「ゴシェン」と言うよく土地の肥えた地方をパロから与えられ、そこで暮らすようになります。そして、ヤコブは死ぬ前に、息子や孫たち12人をイスラエルの民の12部族の長と任命し、祝福します。

モーセ - エジプト脱出

それから400年経った頃*、イスラエルの民は300万~400万人の数*に増えていたと思われます。その頃、新しくパロになった人物は、ヘブル人との歴史に鈍いと思える人物でした。イスラエル人が当時どんどん増える一方だったので、彼らにエジプトを乗っ取られる事への恐れから彼らを迫害する様になり、彼らを奴隷職に定めた上に、イスラエルの民を消滅させようと試みます。それは、イスラエル人の男子の初子は皆、ナイル川に流せと言う残酷なお触れでした。

*出エジプト12:37-40より想定

この様な過酷な背景の中でモーセは生まれましたが、神の不思議な守りと導きによって、皮肉にもパロの部族で一人の王子として育ちます。モーセが40歳の時、自分の同胞たちであるイスラエル人の中に帰ろうとしますが、ある出来事から、エジプトを逃げて「ミデヤン」と言う土地に住み着き、世帯を持ちます。80歳になった頃、神が、羊の世話をしていたモーセの前に燃える柴の姿になって現われ、彼に自分の同胞たちをエジプトから導き出してカナンの地に連れ戻る事を命じます。

荒野での40年

長い話を短くしますが、こう言った訳でモーセはイスラエル人(と有志の異邦人たち)を連れてエジプトを脱出します。カナンの地までは本来なら歩いて2週間程の距離でしたが、民の神に対する不信仰が原因で、途中の荒野をなんと40年間さまよう事になってしまいました。しかし、逆にこの40年はイスラエルの民が神の民としてその心を育てられる為に重要だった様です

荒野をさ迷っている間、神は、天から「マナ」と言う食物を民に与え、時には岩から水を流し、衣類や履き物を傷む事から守るなどして*  民の必要を満たされました。何よりも、神御自身が、昼間は大きな雲の柱となり、夜は大きな火の柱となって民の前を進みながら彼らを導いておられたのです。雲の柱は大きな陰をつくり荒野の激しい日差しから民をまもり、火の柱はきっと厳しく冷え込む荒野の夜に光と暖を施していた事でしょう。**  これらの奇跡意外にもイスラエルの民の上に起るあらゆる奇跡や超自然的な現象が続きました。例をあげると、出エジプトに至るまでにエジプトに起きたあらゆる現象、紅海が二つに分かれて民がそこを渡った後を追い詰めてきたエジプト軍を飲み込んだ出来事、あらゆる戦での勝利などです。傍から見ていた周囲の国の人達にも、イスラエルの民が神に守り導かれている事が明らかだったのではないでしょうか。この様な形でも、神はイスラエルの存在を通して全世界の人達に御自身を示されていたに違いありません。

* 申命記29:5  **詩篇105:39

エジプト脱出からカナンの地に向けての40年間のルートは幾つか推測されていますが、次に二つ挙げました。どちらかと言うと、図②の方が主な理解の様です。

図①

図②

律法

荒野に入ってから三ヶ月ほど経った頃から神は、民が守るべき律法として数々のおきてをモーセを通して定められました。一番初めに言い渡された律法は「十戒」として知られる十の戒めです。十戒は神と隣人を敬うための律法と言えます。この十戒を神は人々に最低限に心に留めておく基準とされました。

十戒に続いて定められた律法は、奴隷達(経済的な理由から身を売った人達)のためにまつわるもの、他人に負傷を負わせた場合のもの、他人の所有物に損害を与えた場合のもの、社会的な責任、人道的なもの、神殿の設計とその運営に関するもの、神が定めた行事やならわし等です。

いけにえの意味

実のところ、これだけ多くの律法どころか、一つとして守りこなせる人間は、イエスキリストを除いては誰一人いません。神が与えられた規準は、原罪をもった人間には (とびら⑥ 神からの独立)守りきる事は不可能なのです。イエスキリストが十字架に掛かってその人の罪全ての代償を負ってくださったので、イエスを信じる者は赦されます。つまり御子イエスが神の前に、人間の罪の代償のいけにえとなられたのです。* (とびら⑦   神が取った手段)

*第一コリント5:7、ヨハネ1:36

こんな形で、時を超えた 御子イエスの十字架を通して、全時代の人が罪深さとその報酬である永遠の裁きから救われる事ができるのです。その一方、十字架の贖いが実現されるまでの父祖時代や神殿時代では人々が動物達のいけにえを通して、やがて起きるその十字架での真の代償を象徴しながら個人の罪の悔い改めを表す事が神から要求されていました。自分の罪の犠牲になって、目の前で罪のない動物が死んでしまうのを見るとき、人は罪と言う物の重みを教えられていたに違いありません。そうしなければ、人々の心は代々にわたって益々鈍くなり、キリストを迎える準備はできなかったのかも知れません。

律法=鏡

そうすると、律法とはなんの為のものなのでしょうか? 守らなくても良いものなのでしょうか?答えは下記のイエスが教えられた、「一番大切な律法」にあります。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが大切な第一の戒めなのです。」

マタイ22:37-38、『』申命記6:5

この中の「知力をつくして」は、人が神の聖さを学ぶ事が神への愛を実行する方法の一つと言う事を教えています。律法は人間に鏡の様に自分の足りなさを理解させてくれます。世の始めからずっと神が一番望んでおられる事は、人類と愛する関係を持つ(とびら⑦「神が取った手段」)事である事は変りません。神は人が神を愛し、精一杯を尽くして神に従おうとする気持ちでいる事を望んでおられるまでなのです。 世々に渡ってイスラエルで神を愛しながら生きていた人達は、自分達の足りなさや罪深さを自覚しながら、やがて来る罪からの救い主、キリストを待ち焦がれていたのでした。* 

*ルカ2:21~38 等

こうやって、父なる神は御子イエスを送られる場所を準備されていたのでした。 その結果、イエスが来られた時多くの人達が、彼がキリスト(とびら④「人の子 その2」)だと見定める事ができたのです。

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