読む前の要点:

  • 出エジプト25-30章で、神は幕屋神殿の細々とした設計を指定します。なぜ神は人間達の望むやり方で神殿を造らせなかったのだと思いますか?
  • あなたは聖書の中に出て来る民族間の戦いをどう受け止めていますか?
  • 「士師記」の時代はイスラエルが保々、無政府の環境でしたが、この状態はどの様な問題を引き起こすと思いますか?

なぜイスラエル? その2

どんな光景だったでしょうか、現代で言う「中近東の荒野」の中を400万人程の群集が、エジプトの地から家畜や荷物と共に入って行ってしまった様子は?エジプトや周囲の国々の人達はきっとイスラエルの民は散らされるか、或いは全滅するだろうと予測したかも知れません。しかし、間もなく彼らが目撃するものは、イスラエルの民を守り導く超自然的な巨大な雲の柱や火の柱でした。これはただごとではない様子であったに違いありません。そんな中で民を導く指導者として神から選ばれていたモーセはどんなに民が不平不満をぶつけてきても、投げ出す事も神を先走る事もせず(一度だけを除いて)*  彼らを引き連れていたのでした。 エジプトからカナンまでの徒歩2週間の距離を40年かけて民を導かれた神は、決して急いではおられませんでした。**

*民数記20:12
**出エジプト12章、13:21、民数記9:17

幕屋

周囲にとって物々しく思えたものは、もう一つ:イスラエルの民が広げたり畳んで持ち動かしたりしていた、およそ46mx23m四方の幕屋(テント)の神殿であった事も想像できます。人々が集まって神を礼拝する場所は、民が神との関係を保つ為には重要なものでした。しかし、神は人が自らその場所を設計する事を許されませんでした。人が思いのまま神に関係する場所や物を設計する事は神御自身をも「設計」してしまう事になるからです。古代から人はこうして真の神を探り求める事より、自分達の想像するあらゆる「神」を手で造ってきていますね。人の手で造られた神、及び真の神以外の物、人、事柄などが崇拝される値をもつ時それを「偶像」と呼びます。当然の事、唯一であられる神に背を向けて偶像を拝む事は神への大きな侮辱になるので、十戒(出エジプト20:3-17)の中でも一番初めに厳しく禁じられています。

この様な訳で幕屋の神殿も、また後に建てられる建物の神殿も*、神御自身が細かい設計と細かい指導をモーセに託して民に造らせた物でした。五感の世界に生きる人間が目に見えない神を追い求めるにあたって偶像礼拝に走る事が無いように、神が自ら細かい指示をもって、キリストが来る前に生きた人々に「神への近づき方」を用意してくださったのです。

出エジプト25~30、レビ記、申命記
*I列王記6章、II歴代史3章

幕屋の模型

幕屋 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Stiftshuette_Modell_Timnapark.jpg からダウンロード

エリコの侵略

40年荒野にいた後に、約束の地に入る前にモーセは死に、ヨシュアと言う人物が次のリーダーとして立ち上げられます。彼はイスラエルの軍隊を引き連れて、カナンにある、「エリコ」と言う町を攻め取ります。なぜ、愛であるはずの神がこんな事を命じるのでしょうか?

エリコに限らずカナンの地の多くの場所で住民達は代々に渡って、悪夢の様な恐ろしい慣わしを繰り返していました*。その文化は放っておくと、どんどんと癌の様に広がって行くものだったので、とうとう神の裁きを呼んでしまいました。父祖時代には、神が裁きの為に用いていたものは自然災害が主でした。それが神殿時代には、神はイスラエルの民を使って国々を裁かれる事も多くあった様です。エリコの様な社会の影響でノアの時代の様な世の中になる前に対処されなければならなかったのだと考えられます。** 

*申命記12:31、 18:9-10
**ヨシュア記5:13~ 6章

 

士師 – 裁き司

イスラエルの12部族がそれぞれカナンの地で領土を分け与えられ、侵略活動の為、戦国の時代に入ります。それぞれの地方に「まとめ役」と理解すべき、「裁き司」が任職しました。そうやって王国に変わるまでの300年余りの間、裁き司たちが国を「支配」するのですが...「士師記」を読むと、かつてのモーセやヨシュアの影響は跡形も無いかの様に、イスラエルは神を忘れた上、国内では無茶苦茶な事が多く起きていた様子が分かります。この書の中では次の様な聖句が二度出てきます。

 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」士師記17:6、21:25

 

あらゆる地方に定められた裁き司たちはそれぞれの色をもって各地を治めていたのでしょう:統一された指導者が居ない中、まともに神の御心を追い求めて生きていた人も居たと思えますが、多くの場合に人々は自らの「良し悪し」を生み出しては激しい行動に走っていた事が良く分かります。「士師記」とは、そんな状態であっても神がイスラエルの中に忍耐強く働いていて下さっていた事が明らかに表れている内容の書物です。

 

王国化

紀元前1050年頃、イスラエルに初めての王が与えられ、460年余り続く王国が始まりました。その第二代目が「ダビデ」と言う王様でしたが、彼は神の為に、幕屋でなく、立派な建物の神殿を建てたいと神に願ったのです。それが実現し、エルサレムに豪華な神殿が完成したのは、ダビデの息子、ソロモンが王になった時でした。

Ⅰサムエル記8~第一列王記8:11

南北の分裂

三代目の王ソロモンの死後、イスラエルは二つに分裂します *。北がイスラエル、南がユダの国です。北も南も代々に渡って多くの王達が周りの国々に感化され、偶像礼拝に走り、国民達を間違った方向へ導くと言う、神を悲しませ怒らせる行動を繰り返します。 出エジプトの世代から偶像礼拝に関しての厳しい警告を、神がモーセを通してイスラエルの民に与えておられました。それは、イスラエルの国が偶像礼拝を続けると、国民が遠くの国々に散らされてしまう事になると言う、具体的なものでした。しかし南北共に大半の王達、宗教指導者達でさえ偶像礼拝を繰り返し、神殿を汚し、国民を間違った方向へと誘導しました。神は幾度も預言者たちを通して警告を送りますが、人々の心は頑ななままでした。**

*紀元前930年  -NIV Study Bible 1987; Hodder@Stoughton
**第一列王記12~第二列王記24、哀歌、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、他
 

 

アッシリア/バビロンへの捕虜

400年近くの忍耐と警告の後、神はとうとう止むを得なくイスラエルとユダに裁きを降します。紀元前586年から北の王国はアッシリア帝国に、南はバビロン帝国の捕囚になる事を許されます。アッシリアの軍隊に連れて行かれた北の国民はそのまま遠い国々に「溶け込んで」しまいましたが、ユダからバビロンに連れて行かれた国民は、神が啓示されていた通り、70年後(世代は変わってしまっていますが)またエルサレムに戻ってくる事ができます。

この70年の捕虜生活の間に人々の心は再び神に従う決心を固め、その後エルサレムに戻る事が許され、壊されていた神殿も城壁も見事に造り直されたのです。捕囚生活の後、イスラエルの民が国として再び偶像礼拝に走る事は無かった事も見受けられます。

第二列王記17章、25章、ダニエル書、エステル記、エズラ記、ネヘミヤ記、他

沈黙の400年 

民がイスラエルの地に帰国してからの記事も預言も旧約聖書にはありません。実際に帰郷してから預言の言葉がない400年が流れていきました。人々は捕囚から戻ってから建て直した二代目の神殿と書き残されていた神の律法と教えの中で生きていたと伺えます。

 

ローマの支配下

この間にローマ帝国が大きくなり、イスラエルの国をも支配し始めました。捕囚時代以降、イスラエルは王国ではなくなっていましたが、ローマの支配下によって、「ヘロデ」と言う異邦人である人物をイスラエルの王として任職させました。しかし、彼はローマ帝国の操り人形に過ぎなかったのです。このヘロデは良いのか悪いのか、神殿を大きく拡大した事でも有名です。

かつては偉大な王国と知られていたイスラエルがこの頃にはローマの支配下にあったため、多くの人々は、やがて現れるとされていた救い主「キリスト」は政治的な「救い」をもたらす存在だと言う勘違いをしていた様です。 西暦30年頃、イエスが30歳の時から始められた伝道活動に対する人々の異なる反応や十字架刑にまつわる経緯*も、これらの歴史を視野に入れると理解し易いでしょう。

*マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書

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