読む前の要点:
- イエスキリストが御自身を神として自称していた事について、あなたはどの様に判断していますか?
- イエスキリストが、人としてこの世を歩かれた神であるなら、どの様な存在であるべきだったと思いますか?
人の子 その2
人間として生きたイエスキリストが実際に神でもあられるのだと立証する事柄とは何でしょう?
この疑問がとびら③から引き続き今回の話題になります。二千年前にこの世を歩いた人物がなぜ世界中で神として拝され続けて今に至っているのでしょうか?いったいどう言う根拠があってイエスキリストが三位一体の神だとされるのかを探りましょう。
聖書の証言
聖書は信頼にいたる書物です。その文献としての信憑性について「とびら⑲ 聖書の信頼性」の章の課題になっています。聖書は66冊の本(記録された事柄や詩、手紙、預言書など)で構成されており、旧約聖書と新約聖書の二つに大きく分かれています。 旧約聖書は「この世の救い主が来るよ。」と語り、新約聖書は「その救い主は神の御子イエスだよ。」と語ります。イエスの名前につく「キリスト」と言う言葉は苗字と言う訳ではなく、この「救い主」と言う意味を持ったタイトルなのです。 神は旧約聖書の古き時代から、人を神との和解に導くため救い主を送ると預言し、またその方は神ご自身であられる事も預言されてきました。新約聖書は、イエスが、その多くの預言にぴたりと当てはまった人物であると示しています*。
*(イザヤ7:14 -> ルカ1:31-35)(イザヤ9:6-7 -> ルカ1:32-33)
(ミカ書5:2 -> マタイ2:1-6)(ゼカリヤ書12:10 -> ヨハネの福音書19:31-37)等多数
イエスご自身の証
どんなに周りが騒ぎ立てても、本人が「いやいや、とんでもない、神だなんてそんなそんな。」と言うならば、もはや彼が神だと言う事は有り得ないでしょう。聖書の中のイエスの生涯を語る四冊の福音書を読むと、イエスが何度もご自身を神の御子であって神ご自身だと言う事を語られたり表されたりしています。その例は数多くありますが、その中でも次の三つの聖句が特に単刀直入と言えるでしょう。
「わたしと父は一つです。」ヨハネの福音書10:30
「わたしを見た者は父を見たのです。」ヨハネの福音書14:9
「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」ヨハネの福音書14:6
イエスはこの様な大胆な内容を多く語られ、多くの奇跡を行い、また人の罪を赦す権威を持っていると主張されました。彼と出会う人はイエスについて自分はどう判断すべきか、という選択に迫られたのです。そして、その選択肢は多くはありません。ここで、イギリスの作家・哲学者のC.Sルイスの論理を借ります*。イエスキリストをただの人間であって、偉大な道徳の教師に過ぎないとする論理は実のところ通用しない。 一人の人間がイエスの様に自分を神だと自称すれば、可能性は三つに一つだと言います。
- 嘘をついて人を惑わしている、邪悪な人物である。
- 気が狂った人である。
- 真実を言っている。
嘘つき・邪悪な人物?
もし、嘘をついて人を惑わすのであれば、それは自身の利益のため意外に理由は有るでしょうか?イエスが神の子だとう言う主張を最後まで曲げなかった為、指導者達は彼を十字架の刑に定めてしまいました。もし、自分の利益の為なら、十字架の死に至るまで主張しつづける理由があるでしょうか?
気狂い?
すると、気が狂っていたのでしょうか?イエスの言動を一つ一つ検討すると彼が気が狂っていたとはとても思えないとCSルイスは語っています。
* C.S. Lewis, 「Mere Christianity」より要約
“This man we are talking about either was (and is) just what He said, or else a lunatic, or something worse. Now it seems to me obvious that He was neither a lunatic nor a fiend: and consequently, however strange or terrifying or unlikely it may seem, I have to accept the view that He was and is God.”「我々が論じているこの男は自分が言っている(言っていた)通りの者であるか、あるいは気がふれているか、またはもっとひどい者であるかのいずれかなのである。私には彼は気がふれているとも、魔物であるともまるっきり思えない。つまり、結果として、不思議かつ恐ろしくさえ感じ、あり得ないとも思えるのだが、わたしは彼が昔も今も神である、という見解を受け入れざるを得ないのだ。」
そもそも気が狂った人間が統一性や一貫性を保つ事はとても難しいものではないでしょうか?そして、その統一性や一貫性を失った人物に正気の人間は従って着いて行こうとはしません。なので、イエスが正気でなかったなら、同じ様に正気でない12人を探し出して弟子にしなければいけなかった事でしょう。(弟子の任命はイエスの方からの動きでした。)皮肉な事ですが、統一性と一貫性がなければそれも無理な話です。
例えばそこを一つ無理をして、あの 12人が正気でなかったとします。そうなると、その弟子達が迫害を受けながら命がけでイエスを伝えて築かれたキリスト教会自体も正気でないと言う事になります。歴史的にも教会は、紀元前と西暦に歴史を分けて年月を世界で統一させたり、イエスキリストの教えに基づいて世界中に病院や学校を建てたり、第三世界に支援団体を送り出すのも他のどの団体や制度にも先駆けて行って来ています。正気な人達でなければできない事です。
もう一つの重要な事があります。聖書にはイエスは「権威を持って人々に語られた」と書かれています*。その権威をもって彼は人の罪を赦し悪人を立ち返らせたりなさいました。学歴はあっても道を外して神を忘れ、自分達の栄光を追いかけていたイスラエルの宗教指導者達を叱り付け黙らせてしまう場面も多くあります**。正気でない人間にできる事ではありません。
*マタイ7:29、マルコ1:22、マタイ21:23-27 等
**マタイ15:7-9 等
真実?
最後に残された可能性はイエスが真実を語っていると言う事です。イエスキリストは神だからこそ、預言されていた通りにこの世に来られ、真実と預言を語り、奇跡を行い、人の罪を赦されました。神だからこそ、十字架で犠牲を払うほどの深い愛をもって人類を愛され、また死からよみがえる事ができたのです。
信じる者達の証
世々に渡って、イエスキリストと出会って心も人生も変えられた多くの人達が世界中に存在してきています。現在も30億人近いと思われる数のクリスチャン達が文化や国民性を超えて同じ三位一体(「とびら② 父と子と聖霊」)の神をを拝しながら生きています。神を捜し求める人物には、神御自身が必ず答えて下さるからです*。
*(エレミヤ書29:13、使徒の働き17:27)
「人の子」
「人の子」と言う呼び名はイエスの神性を否定するどころか、人としてこの世に来られた神だと言う事を強調して、イエスは御自身を指して呼ばれたと言えます。その名前の裏には、天の国の栄光の中に留まる事よりも、人となって人類との和解の道を開く事を選んでこの世に足を踏み入れてくださった*神を読み取る事ができないでしょうか?
*ピリピへの手紙 2:6-8
「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。」
イエス キリスト (ルカの福音書19:10)
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