今回は引き続きルカのテーマでもある「イエスは誰か?」という問いかけに対して、十字架の必要性すなわち不信仰・破れた現実から学んでみたいと思います。山頂での不思議な、栄光に満ちた体験をした弟子たちでした。きっと意気揚々と山を降りて行ったのではないでしょうか?しかし彼らを待ち受けていたのは破れた現実だったのです。
不信仰な世 (37-45節)
37 次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。38 すると、群集の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。39 ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。40 お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」41 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」42 その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。」 43 人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。44 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまにい人々の手に渡されます。」45 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。
山頂の夢のような、天にも昇る心地のする体験
天にも昇る心地のする体験した山から降りて来ました。ホッとくつろぐ間もなく、悪霊の働く、不信仰な世がイエスと弟子たちを待っていました。
弟子たちは山上のイエスの変貌を目の当たりにして、おそらく気持ちは高揚していたことでしょう。現代の私たちも素晴らしい礼拝を体験した後のような心を熱くし、神様のめぐみに浸っているひと時だったかも知れません。しかし、そんな栄光の時は瞬く間に過ぎてしまいました。
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」とイエスは言います。私がそこに居合わせた弟子だったら、隠れるところがあったら隠れたくなるような叱責に聞こえたかも知れません。出来ればもう一度山に戻れないかなぁなんて思ってしまうのです。
もう数十年も前のことですが、東京でイースターコンサートに教会の仲間達と行きました。未信者の方も招いていたのでどうかこのコンサートでイエスに出会えますように、と皆の心はワクワクしていたと思います。コンサートも、ショートメッセージも素晴らしく、未信者の方もとても感動し、みんな神様の栄光に浸っていたと思います。
会場をでて、普通に地下鉄に乗り、自宅に帰るいつものように超混み合った電車に乗っているうちに、そんな興奮は冷めて行きました。座席を取り合う乗客や、酔っ払い、くだらない雑誌の広告、そんな中にいると、何か全然別の世界をから帰ってきたような感じでした。ああ、次のスペシャルコンサートはいつかな、なんて考えてたかも知れません。現代であれば一つのユーチューブから次のポッドキャストや有名な牧師の礼拝ビデオを見続けるようになるのでしょうか。
2019年に投稿した「見逃されたキリスト」というブログで、私はこんなふうに教会の牧師の言葉を引用しました。
“There is no shortage of spirituality that promises you a mountain-top experiences. That’s where our hearts are so tricky. We can be so spiritual and we may miss Jesus.”
「山頂の体験のような感動を必ず与えてくれる霊的な事物には事欠かないですが、そこに私たちの心の弱さが現れます。私たちはあまりに霊的になりすぎて、肝心のイエス・キリストを見逃すことがあるからです。」
David Wood, The Danger of Do-It-Yourself Religion
そうなんです。イエスから目が離れたらダメですね。そして、イエスがどんなお方かを見定めねばならないのです。それは次のイエスの言葉が鍵になります。
人々の手に渡されるイエス
子供が癒されて父親に返された時、イエスは「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と弟子たちに語られました。
「人々の手に渡される」というのは裏切られる、異邦人の手により十字架にかけられることを指しているでしょう。
不思議なのは、ルカは弟子たちがこのことを理解することが出来なかった、隠されていた、と記しています。さらに、弟子たちは意味が分からなくても怖くてイエスに尋ねられなかったとあります。
ここを理解するのに役に立つと思うのは次のNTライトの言葉です。日本語の抄訳をつけました。
「弟子たちには理解出来ませんでした。山頂で目の当たりにした栄光、すなわち、贖いの約束をそのご自身が背負われておられる、神の選ばれし御子の栄光こそが、ついに別の丘の上で、今度はエルサレムの町の外にあるみすぼらしい丘の上で現されることになるということを。私たちも同様です。私たちが大きな喜びを体験している時、あるいは深い悲しみに浸っている時、神様は何をしておられ、何を語っておられるのかどうしても理解に苦しむことがしばしばあるからです。しかし、私たちに語られる言葉は、何が起きているかさっぱり分からない時でもイエスに従うように導いてくれる言葉です。それはあの不思議なガリラヤにおいて雲の中から聞こえて来た声そのものなんです。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼のいうことを聞きなさい。」
“They were unable to understand how it was that the glory which they had glimpsed on the mountain, the glory of God’s chosen son, the Servant who was carrying in himself the promise of redemption, would finally be unveiled on a very different hill, an ugly little hill outside Jerusalem. We, too, often find it completely bewildering to know how to understand all that God is doing and saying, both in our times of great joy and our times of great sadness. But the word that comes to us, leading us on to follow Jesus even when we haven’t a clue what’s going on, is the word that came from the cloud on that strange day in Galilee: ‘This is my son, my chosen one. Listen to him.’”
N.T. Wright, “Luke for Everyone”
そんな理解の遅い、不信仰で曲がった世にある力不足の弟子たちとイエスは歩んでいるのです。イエスに与えられた使命はエルサレムに行き、世の罪を許すため、その全ての罪を背負い、十字架にかかることでした。ルカの4章でイエスが宣言した「救い主」の姿を全うするのです。
いよいよエルサレムへの旅路が始まろうとしています。次回2回に渡って、出発前チェックリスト、というか、「イエスの弟子であるということは何か」をイエスが示しているところから学んで行こうと思います。