前回の学びは、エルサレムの神殿の指導者達がイエスに向かって「キリストであるしるしをみせろ」と言わんばかりの要求を投げかけます。 今回はそれに対するイエスの対応です。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
19節
イエスの「爆弾発言」な訳ですが、指導者達はこの言葉を文字通り受け取ったようです。それとも、その裏を読む事を拒んでいたのでしょうか?(前回参照)
どうやら、この神殿は46年かけて建てられたようですね。 それを三日で建て直してみせると言うのかと彼らは呆気にとられます。 しかし、「この神殿」とは御自身の身体の事を表しておられたと、著者のヨハネはイエスが真に意図したこの言葉の意味を語ります。
つまり、御自身の霊(聖霊)が宿られる建物として身体を例えられています。 御子イエスは、神としてだけでなく、あるべき真の人間の形を初めてこの世界で実現されました。 罪一つない、聖い生き方で神に従い通す人生を実現されました。 その為、救いを受けた人が神の前に、イエスの完全なる義を「着せられる」事ができるのです。 当然、イエスのように聖い人生を送る事はできませんが、そのクリスチャンの身体も、実に聖霊を宿す「神殿」なのだと聖書は語ります。
エペソ2:8-9、Ⅱコリント5:21、Ⅰコリント6:19-20等
そしてもう一つは教会時代の始まりをも意味されていたのではないでしょうか? 聖書は教会はキリストの体であると語ります。 イエスが天に昇られた後は物理的な形でこの世に存在されていませんね。なので、イエスの御心を行う教会(クリスチャンの集まり)がキリストの体であると言う事です。
ローマ12:5-8、Ⅰコリント10:17、12:27等
後々、イエスの言葉のとおり、その身体は十字架の上で「壊され」ます。 そして三日の後によみがえられた事を四福音書の中で読む事ができます。弟子達はみんな、よみがえりを見た後にこの事を思い出したと言う事なので(22節)、この当時、弟子としてイエスにつき従っていた著者のヨハネにも当初はこの言葉が理解できなかったと推測できます。
この時なぜイエスはもっと率直に御自身の十字架とよみがえりを預言されなかったのでしょうか? 実際、福音書の中でイエスが弟子達にハッキリとこれらを預言されています。 ところが、霊的に鈍くなっていたり、頑なになっている人達には返って例えで話される事が多かった事が読み取れます。
マタイ13:10-15
十字架とよみがえりに関しては、この時以外にもイエスがハッキリと弟子達に預言しておられるのが福音書の中に記されています。 弟子達にとってこの預言は受け入れ難かったのでしょう。 彼らでさえも全てが成就するまでしっかりと理解する事ができなかったようです。
「ご自身をお任せにならなかった」
「イエスが過超の祭りの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。 しかし、イエスはご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、...」
23〜24節
まず自分自身を人に任せるとはどう言う事でしょう。 この言い回しはあまり使われていないでしょうが、相手を信頼する事を意味するようです。 確かに、誰かを信頼するとはその人に自分にとって大切な事を分かち合ったり、自分の隠れた感情を打ち明けたりできるものです。それは確かに相手に心を預ける、任せるという形になるのではないでしょうか。
わたし達が神を信頼する事を聖書は幾度も戒めますが、逆に神がわたし達を信頼するとはどんな事なのでしょう? 例えば聖書の中のキャラクターたちにも見る事ができます。 人間ですから誰もが失敗やつまづきを経験します。 しかしそれでもひたすら御心を追い求める人達、神を愛する人達にのみ、神はご自身の心を明かしておられます。現代のクリスチャン達の間でも、不完全な信仰であっても、愛、信頼、服従、そして忠実をもって神を慕い求める熟した信仰を持つ人には神も心を開いてくださる、つまり「ご自身を任せ」てくださるのではないでしょうか。
「御名を信じた」との言葉はどうでしょう? イエスが様々な奇跡を行うのを見て、多くの人が「この人こそが預言されてきたキリストだ」と察知したのかも知れません。 しかし、彼らにとって「キリスト」とはどの様な意味があったのでしょうか? 人類を罪から救う救い主であると、果たして何割の人が理解していたでしょうか? 実際にこの群集たちは、イエスを自分達の新たな王に仕立て上げるためイエスを捕らえようとする場面も福音書の中で読む事ができます。 それはもはや、自分の都合に合わせてイエスを魔法使いの様に扱おうとする信仰なのではないでしょうか? 後々、エルサレムでイエスを「十字架につけろ」と多くの人が叫ぶ日が来ます。 その中にはこの時エルサレムで「御名を信じた」人達も混じっていたのでしょうか...?
「未熟な信仰」を持つ人に聖書は、「御ことばに根をしっかりはってイエスキリストの恵みと知識において成長しなさい」と促します*。 しかし、自身を欺く「表面的な信仰」は魂の救いに達成していない可能性をも警告しています**。 もし、自分の信仰に確信がなければ、イエスキリストが自分を罪から救ってくださる救い主だと理解しているかと言う事と、主イエスに従って生きて行きたいと願っているかを振り返る必要があるでしょう。
*Ⅱペテロ3:18、ヘブル5:12-14、
** ヤコブ1:22、マタイ7:21-23、マタイ13:20-21
適用:
あなたはイエスキリストに自分の主としての権威を捧げていますか? そうであれば、聖霊が自分の中に宿っておられ、自分の身体が神殿である事をわきまえる事はできていますか?