お知らせ
このブログシリーズは、リージェントカレッジのリフレームコース及び、CA Church で開催された文化と信仰のコースを基にして作成した日本語でのバイブルスタディーを基盤にしています。リージェントカレッジのリフレームコースの本編の紹介、ストリーミング及びダウンロード出来るビデオコースはこのリンクからアクセスしてください。
人生の答えはどこで見つかるでしょうか?
こんな疑問を持った事がありませんか?
私は誰なの?
私にとってのアイデンティティーってなんなの?
なんで私は生きているの?
私の人生って、いったいなんなの?
この世ってなんなの。どう理解したらいいの?
あなたは人生の大問題。。。あなたのアイデンティティーについて、人生の目的について、どうして生きているのか、この世とは何か、という質問に対して、どこから解答を得ようと探り求めていますか? 世の中にはストーリーがひしめいていて、混乱します。
私たちが神様のストーリーに身をおいていることを知り、イエスにあってのみ人生についての問いかけに解答があるのです。イエス・キリスト無しでは人生は意味をなさないのです。
今回はそのイエス・キリストにフォーカスをおいて考えています。
前回までのおさらい
- 神様の天地創造。この世は偶然が重なって出来上がったのではない
- 本来の被造物、人類は「良い」創造であった
- 人の堕落により罪が入った
- 神の働きに参加し、この地に「シャローム」をもたらす、贖いの目的に関わることが出来る
- イスラエルのように、普通の人々を神は召し出し、その働きに用いられる
- 神は人が失敗を繰り返してもその御業を進められる
- このイスラエルのストーリーはイエスにおいて成就する
- イエスがこのストーリーの頂点であり、旧約聖書の約束の成就 (ルカ24:27)
イエスが、神の真実の似姿、本来のイスラエル人、その人となり、みわざ、言葉をとおして人類を贖う方です。イエスは救い主、そして主であり、私たちの人生、普通の日常生活、私たちをとりまく文化に意味をもたらしてくださる方です。 福音は単に個人的に救われることを意味するのでは無く、造り替えられた世界に、生まれ変わったいのちで生きていく呼びかけでもあります。
ReFrame ビデオ
第2話に登場したクリスティーンの証しを中心に観ます。 彼女は、こう証ししています。「顧客にビジネス上の問題点とか指摘して、でも一方家では買い物や家の片づけとか普通のことしなきゃいけなくて子供たちの朝昼晩三食の用意、やんなるくらいたくさんの食器洗い、部屋じゅうをペーパータオルとかで、食べかすとかきれいにして、何度も、これがあたしの存在の悩みの種だわ、と思ってた。床掃除してるとホント、そう思えてきちゃって、あたしの人生ってこんなに普通なの、なんか当たり前すぎる、もっとなんかあるはず、と思うんです。自分の救い、自分のモラルの大事さは沢山教わってきたけど、でも、自分の信仰が、何か周りと関わりのあるものなのか、そしたら、どう信仰に生きるべきなのか、そのへんは分かってなかったんです。」 イエス様が私たちを死ぬほどに愛してくれている、と分かっていても、人生の全てにどう関わるのか、ということにうまくつながらないのはなぜでしょうか。
ヨハネによる福音書 1:1-18
1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
イエスの当時の時代背景
外敵による侵略や捕囚、そして自身の神に対する背きの罪によって、イスラエルのストーリーは難破した船、あるいは鋭いつるぎの上を歩くような状態でした。
イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、その圧政に苦しんでいたのです。「神はいったいどこにいってしまったのか。復興の約束はどうなってしまったのか。イスラエルである、ということはいったいどんな意味があるんだろうか、」と悩み苦しんでいたのです。
マタイ3:1-17
そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。 2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」 4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、 6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。 8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。 14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。 16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
バプテスマのヨハネから始まるストーリー
なぜバプテスマのヨハネから?と尋ねるでしょうね。イエスは彼無しでは理解できません。かれこそ、イエスとイスラエルの歴史をつなぐリンクなのですから。
バプテスマとは、人々を水にくぐらせるものです。以前に、砂漠の地で人々に水をくぐらせた者がいましたよね。ヨハネは出エジプト(14章)を再現しているのです。 どういうことでしょうか? 神学者のNT Wright は、悔い改めのバプテスマは、「イスラエルがその捕囚の地から戻るにあたって通らねばならないものだった」と語ります。
イエスの洗礼
イエスの成人後の最初の行動は、ご自身が洗礼を受ける、というヨハネを通しての神様の導きに従うことでした。イエスはヨハネの語る洗礼に身を投じることでそれを成就されたのです。 人々が洗礼を受ける際は皆、自分の罪を言い表したのですが、イエスの場合は彼ではなく、神様自身が語られたのです。
洗礼の記事から
✔ 神様はその御霊を下された。新しく造られたもの、を記す神の霊が与えられたのです。
✔ 声がしたこと。神はイエスの素性を述べ、なんの目的があるかを語られた。詩篇2篇ーーすべての国を治めるダビデの系統の王、イザヤ42章ーーなぞめいた主のしもべとして。すなわち、メシアはダビデの家の偉大なる王としてやって来て統治するが、その方法は人々の思いとは異なることであった。(聖句はハンドアウト最終ページにあり)
✔ イエスは「子」と呼ばれた。
✔ 洗礼からイエスは荒野に導かれた。40日間そこで過ごされた。荒野と40という組み合わせは、出エジプトに出てきます。イスラエルをその長子とよび (Ex 4:24)、水をくぐらせ、そして荒野に40年間送ったのです。イエスはここで、イスラエルのストーリーを自分に体現させているのです。
イエスの試み
第一の試み=たとえ死を意味しようと、自分の益のために力を濫用はしない
第二の試み=この御国では信頼がすべて。信頼は強要されてではなく、自由に託されている。
第三の試み=人々の厚い宗教心を濫用して操ることはしない。
福音書によれば、イエスは試みに屈しませんでした。子としての立場を裏切らず、その結果、霊の力で荒野から引き戻され、神の御国の到来を告げたのでした。
イエスの力あるわざ
神様だけに出来ることをした
- いやし:盲人、足なえ、病人達をいやし、そして死人までもよみがえらせるなど、神様が人を「その似姿に」回復させようという御心を反映させています。
- 救い出し:イエスはけがれた霊を追い出したが、それは神様の御霊が人々に宿ってほしいという願いの反映でした。
- 自然界に命令をくだした:荒海を沈めた(神のみ可能)~悪霊を豚に入れて溺れさせた~荒野で養ったのです。 (どこかで聞いたことがありますよね。)
権威ある新しい教え
- 神の御国、神の性質に関する教え。(たとえ話:恵み undeserved merit)
- 山上の垂訓 (モーセみたいに?)
- 聖なること、とは何かという教え(下記参照)
イスラエル
- イスラエルは神様の性質を現し、聖くあれ、と命じられていました。これはパリサイ人にとっては、律法全てをどの点からも破らないように努力することにありました。安息日の取り決めもありました。いわく、何が仕事とみなされ、何を食べてよいか、何を食べてはならない、など。しかし、イエスは人は神の似姿に造られているがゆえに、聖くある、ということは安息日を守る守らない以上に、人を守ることにある、と言います。
イエスは何者か?
- イエスに出会う者たちは、常に、「イエスは何者か」と尋ねた
- イエスは
- ダビデの家のメシア、イスラエルの苦難のしもべ。確かにそうですが、さらに、
- 罪を赦し、病をいやした
- 自然をコントロールした
- 聖書への権威を示した。 「わたしは。。。と言う」
- 食物の取り決めは無効であるとした(食べるものが汚すのではなく、出てくるものが人を汚す)
- 神様が共におられる
- イスラエルを造り替えられるお方 。。。 12弟子への導き。。。律法を犯さないように、ではなく、律法を体現したイエス様に従うこと。。。
- 聖さを定義しなおした方 。。。 律法を破らないように、ではなく、十字架を負うことであると説く。聖さとは、まず自分を投げ出し、人生を「わたしがいのちである」とおっしゃる方にまかせて、従うことである。
十字架:新しい過ぎ越し
過越の祭りはイスラエルが奴隷として囚われていたエジプトから奇跡的な方法で解放されたことを記念して毎年もたれる祭りです。神様の裁きの剣は、子羊の血をかけられていた門柱のある家は「過越し」たのです。
イエスはその十字架で、過越の祭りの子羊の血と肉ではなく、ご自身の血とからだをもって、新しい過越の祭りを始めたと言えます。イエスの血と肉である十字架を通して、彼を信じる者には、人間にとって最も大きな囚われの場所、「死」からの解放を与えたのです。イエスは信じる者全てにいのちを与える、というイエスの新しい契約を私たちに対して築いてくれたのでした。
本当に私たちを救い出せるのは、自分に全ての死をまとわせることのできる方のみである。イエスによってそれが行われた。十字架の上で、私たちの死が彼の上に置かれたのである。結果、私たちには神様について、人間の存在意義について、新しいビジョンを与えられました。
考えてみてください
1. イエスが、大きな聖書のストーリーの部分をなす、と分かることは、あなたの、イエスとその人生についての考え方に何か変化をもたらせますか?
2. イエスが救い主であり、同時に王である、と認めることは(認めないことと比べて)何が違うでしょうか。
3. 神様を識る、ということは、神様のご性質がイエスに表されている、とするとどういう意味を持ちますか。
====参考====
詩篇2篇
1 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。 3 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」 4 天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。 5 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。 6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」 7 「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。 8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地の果て果てまで、あなたの所有として与える。 9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」 10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。 11 恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。 12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。
イザヤ42章
1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声は聞かせない。 3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらず。 4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。 5 天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。
6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。 9 先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」 10 主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。11 荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。12 主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。 13 主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。
14 わたしは久しく黙っていた。静かに自分を押さえていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。15 わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし、沢をからす。16 わたしは目の見えない者に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。17 彫像に拠り頼み、鋳像に、「あなたがたこそ、私たちの神々」と言う者は、退けられて、恥を見る。 18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。 19 わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。 20 あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。 21 主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。
22 これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。 23 あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。 24 だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。 25 そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。