Anyone who intends to come with me has to let me lead. You’re not in the driver’s seat; I am. 私についてこようと思っているなら誰でも私のリードに任せてもらわねばなりません。運転席についているのはあなたではなく、この私なのですから。(Matthew マタイ 16:24)
Eugene Peterson, Praying the Message of Jesus, May 23
We want to follow Jesus, but like Peter we also want to tell Jesus where to go. Jesus doesn’t need our advice; he needs our faithful obedience. Discipleship means learning how to listen to Christ, not getting him to listen to us. 私たちはイエスついて行きたいと思うのですが、ペテロと同じように、イエスには私たちをどこに連れて行くべきか教えてあげたいと思ったりするのです。でもイエスには私たちの助言は無用です。イエスが欲しいのは私たちが彼に忠実に従うことだからです。弟子として生きるということは、イエスに自分のことをより上手に伝えられるようになる、ということではなく、イエスの言うことをより上手に聞くようになることなのです。
このEugene Peterson のデボーショナルを先週の日曜日に読みました。 日本語訳は私の拙訳です。そして、ちょうどその朝の礼拝賛美曲にはMatt Redmanの Holy – Jesus You Are がありました。これまで何度も賛美した曲で、特にサビの部分は(マスクをつけたままでも)大声で歌いたくなるのです。この日は(録音ですが)バンドにも参加していました。収録した曲をYouTubeで紹介します。歌詞と筆者の拙訳を載せておきます。
さて、この曲を聴きながら、その日の朝に読んだデボーショナルの箇所が頭に浮かんできたのです。その朝の箇所は、ペテロが、「あなたこそ神の御子、キリストです」と告白した場面の次の場面からのデボーショナルでした。その朝の箇所では、ペテロはなんとイエスから、「さがれサタン!」と言われてしまうのです。その場面からの学びです。
すぐ直前では、イエスから「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:17)」とまで言ってもらっていたのに、今日のデボーショナルの箇所では、「下がれ」と言われてしまったのです。何が起きたのでしょうか? せっかくペテロは正しくイエスのことを告白したのに、どうしてイエスに強く拒絶されてしまうような羽目になったのでしょうか?
朝聴いた、そして礼拝で賛美した、Matt Redman の曲の中で、イエスに対して「あなたは生ける神、偉大なる永遠の神、」と讃えました。ペテロのようにイエスを告白したのです。でも、そんな風に賛美しても、私たちもペテロと同じような目にあってしまう可能性があるのでしょうか?
その朝のデボーショナルの箇所の背景はこうです。ペテロはイエスについて正しく告白したのち、イエスから、「自分は十字架の道を歩む、つまり苦しみを受ける事になる、」と言われたのです。そのイエスの言葉を聞いてペテロは、「そんなことがあってはなりません!」とイエスを戒めてしまったのです。イエスはその言葉に対して、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ16:23)」と叱責したのです。それはどういうことか、というと、ペテロはイエスにはついていくけど、イエスの行動や、行き先は自分が決めたい、という思いがあって、それが「十字架での苦しみ」とは全く結びついていなかったので、「そんなのダメです!」と言ってしまったのです。
私たちも、イエスに従おうとして歩む時に、今朝のEugene Peterson の言葉のように、イエスに、「私はあなたについていっています。でも、こんな状況何ですよ。それって駄目ですよね。イエス様、こんな風・あんな風に、今すぐ変えてもらえませんか?」なんてかけあったりしています。イエスの答えはでもはっきりしています。イエスは私は十字架の道を歩むのだ、あなたもついてきなさい、と言う答えです。
Matt Redman の曲の中で、サビの部分はまるでペテロと心を一つにして私たちはイエスを讃えているようです。そこで、忘れてはならないのは、その「生ける神、偉大なる永遠のお方、力ある名前」は全て十字架に基づいていることです。そのヒントは一番と三番の歌詞にあります。
一番ではイエスの愛の深さ、つまり、十字架の愛です。(ヨハネ15:13)
三番ではイエスの再臨を歌います。「かしこより来たりて、生けるものと死にたるものを審きたまわん。」という使徒信条の一節を思い起こさせます。 するとヘブル人への手紙のこの箇所を思い起こさせられました。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル12:1-2
今この時にイエスを讃える、告白することには常に十字架がそこにあるのです。そして、その十字架こそ、イエスを告白するものが同様に歩む道となります。それがイエスについていくことです。そしてその歩みは常にイエスの再臨と来るべき新天地への思いを持ちつつ進むことなのです。
Eugene Peterson の結びの言葉、「弟子として生きるということは、イエスに自分のことをより上手に伝えられるようになる、ということではなく、イエスの言うことをより上手に聞くこと」から、想わされることは、イエスから目を逸らさないで、イエスの導かれる道を「走り続ける」ことですね。
Holy – Jesus You Are
Matt Redman
What heart could hold the weight of Your love
And know the heights of Your great worth
What eyes could look on Your glorious face
Shining like the sun
あなたの愛の重さを支えられる心なんて存在しない
あなたの素晴らしさの高さは計り知れない
輝く太陽のような
あなたの素晴らしい栄光を見据えることの出来る目は存在しない
You are holy, holy, holy
God most high and God most worthy
You are holy, holy, holy
Jesus, You are
あなたは聖なる、聖なる、聖なるお方
いと高き神、何より尊い神
あなたは聖なる、聖なる、聖なるお方
イエスよ、あなたはまさにそうです
Your name alone has power to raise us
Your light will shine when all else fades
Our eyes will look on Your glorious face
Shining like the sun
Who is like You, God?
あなたこそ私たちを引き上げてくれる力のある方
全てがかすみ消えていっても、あなたの光は輝いている
輝く太陽のように
あなたの素晴らしい栄光に私たちは目を向ける
いったいあなたのような神があるだろうか
Who shall we say You are
You’re the living God
Who shall we say You are
You’re the great I am
The highest name of all
You are all You say You are
あなたのことを何であると言おうか
生ける神と言おう
あなたのことを何であると言おうか
偉大なる永遠の神、何にも勝る名前
あなたこそあなたのおっしゃる通りの方
And You shall come again in glory
To judge the living and the dead
All eyes now look on Your glorious face
Shining like the sun
Who is like You, God?
そして栄光のうちに再臨する
生けるものと死にたるものとを審く
輝く太陽のような
あなたの栄光の御顔を仰ぐ
あなたのような神が他にいるだろうか