前回の学びに登場したピリポと言う青年が友達のナタナエルを呼びに行く場面からはじまります。ピリポがイエスがキリストであると言う事への確信を得ると、ナタナエルと言う友達を呼びに行きます。「私たちは、モーセが律法の中で書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」 この言葉からいくつか学びます。
1章45節
「私たちは、」
この時点で、ヨハネ、アンデレやペテロがピリポと一緒に同行した事も考えられますが、恐らく、この青年達は元々から親しい友達であったので、その言葉だけでナタナエルには誰の事かが通じのかも知れません。
「モーセが律法の中で書き、」
神が御自身の民をエジプトでの奴隷生活から救い出し、「イスラエル」と言う国を形成されるために、モーセと言う人物をリーダーとして遣わされました。 そのモーセが書き留めた、自身がイスラエルの民を導いた記録と、神からの律法や預言を含んだ書物の中で何度かキリストの到来を預言していたのでした。*
*創3:15、22:18、49:10、民24:17、申:18:15
「預言者たちも書いている方」
また他にも預言者たちがキリストが来る事を預言してきています*。
*イザヤ 7:14、9:6、53、ミカ5:2、etc
「に会いました。」
イエスがそのキリストだと言う確信の言葉ですね。
「ナザレの人で、」
生まれはベツレヘムですが、イエスはナザレと言う地で育たれました。
「ヨセフの子イエスです。」
血は繋がっていませんでしたが、ヨセフと言う男性がイエスで身ごもったマリヤを娶り、イエスのこの世での父親の役をはたされました。 当時この地方では、名字と言うものがなかった代わりに、だれが父親であるかで人は認識されていました。なので、「○○の子、」というフレーズが名字のようなものだったのです。
ナタナエルとイエス
「ナザレから何の良いものが出るだろう。」
このナタナエルの反応は納得できるものです。 キリストはベツレヘムから来るのだと預言されていたからです。イエスキリストは確かにベツレヘムの生まれでしたが、幼い頃に家族でナザレに引っ越している経緯はマタイ2章で読む事ができます。
「とにかく来て。」と言う感じでピリポがナタナエルをイエスの元に連れてきます。ナタナエルを見て、イエスが不思議な事を言います。「これこそ本当のイスラエル人だ。彼のがうちに偽りがない。」 今出会った人物の心をイエスは既にご存知でした。「本当のイスラエル人」とはどんな人を指したものだったのでしょうか? それは他でもなく、神を心から求め、常に祈り、神の言葉と律法を学び、それを守ろうとする努力をすると言う生き方で、常に真理を求めて生きている人の事ではないでしょうか? そして、その様な人は自分を欺く事もないと言う意味で「偽りがない」と言われたのでしょう。
「どうして私をご存知なのですか?」と言う問いに、衝撃的な答えが返って来ます。
「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」 なぜこの言葉にナタナエルの考えが大逆転してしまったのでしょう? 彼はイエスを神の子であり、イスラエルの王だと言って崇めます。イエスのこの言葉は何を意味したと思いますか?
無論、イエスがピリポの先回りをしてナタナエルを見に行った訳ではありません。ピリポが呼びに来るまで、ナタナエルはいちじくの木の下にいた様ですね。いちじくの木は当時のイスラエルでは大抵の家庭の庭に植えられていたそうです。その大きな葉っぱのおかげで、木の下に来るとスッポリ隠れてしまう事ができた為、人々はその中で祈りの時を持つ事が多かったと言われています。 つまり、その中で祈っている人を見る事ができたのは、祈っていた対象の神御自身に他ならなかったのです。イエスのその言葉で、ナタナエルの持つ知識と聖霊の働きが繋がってすぐさまイエスが神である事を悟る事ができ、ナタナエルはその場で、劇的な信仰告白をします。 何と感動的なシーンでしょう。
ナタナエル = バルトロマイ?
ナタナエルの名前はこのあと聖書にはでてきませんが、イエスの次の言葉から、彼がこの時点からイエスに付き従うらしい事がわかります。 50-51節でイエスは素直に信じたナタナエルがこれからもっと大きなことを見るようになると預言されす。御使いたちがイエスの上を上り下りすると言うのは主に、神の御心がイエスを通して行われていくのを目の当たりにすると言う意味として理解できます。
イエスの12弟子のひとりにバルトロマイと言う人物がいましたが、原語の「バル」=「○○の子」で、「トロマイ」が人の名前であって、「トロマイの子ナタナエル」が本名だったとも考えらていたり、イエスが弟子達にあだ名をつける習慣があった事から、ナタナエルもバルトロマイと名づけられたかが推測されています。その他にも、バルトロマイが度々ピリポと共にいる事が記録されているため、彼が、もともと仲の良かったピリポとつるんでいたのが想像されています。
適用:
神を知りたい、もっと知りたいと願う人に、神様は必ず御自身を表してくださいます。人それぞれの経験は違いますが、それに対して素直に応答して生きるなら、イエス様を通して神が働かれるのを見るだけではなく、参加しながら生きる事ができるのです。