この箇所は前回からの引き続きになっています。なので、イエスが語られるのを聞いていたのは盲目の目を癒されてイエスを救い主として崇めた男性と、パッパラッチの様にイエスに付きまとって監視していたパリサイ人たち、及び一般の人たちと言う事になります。9章の終わりでイエスはパリサイ人の心が盲目である事を指摘し、そのままの流れで10章に突入します。そこでイエスはご自身を羊飼いとされ、あの癒された男性の様に真理を追い求める者をご自身の羊であり、本来イスラエルの人々を神に導く筈であってそれができていないこの指導者たちを無頓着な雇い人とした 例えを通して詳しく描写されます。課題とされる事柄は、羊の囲い、羊の門、羊飼い、羊、雇い人となっています。やはり今回も前後への行き来が多い箇所なので、再びポイント式で学びます。

羊の囲いと門:1〜2、7、9節

始めにイエスは、いかに羊飼いや羊が門を通って囲いに入るのが常識であるかを指摘されます。神の国、イエスと歩む人生を象徴する「羊の囲い」には「羊の門」であられるイエスを通る他には入る方法がない事*を描写されています。「イエスの前に来た者」とはイスラエルを神に導く事ができなかった宗教指導者たちのこと、または神の名を持って、人々を真理から遠ざけてしまう存在**を盗人や強盗として表しておられます。

*ヨハネ14:6、使徒4:12
** ルカ11:52

羊飼い:2〜16節

イエスはまた、ご自身を羊飼いであるとも言われます。この時点より数百年前から、人々を神に導く「牧者」としての役割を果たせていない宗教指導者たちや偽預言者たちを神が嘆かれ、キリストを牧者としてこの世に送られる事を預言者エゼキエルやエレミヤを通して語っておられます。御子イエスはこの預言の通り、「良き牧者」としてこの世に来られたのです。話の中で羊飼いの羊たちに対する権限は門番たちも認めているように、イエスがご自身を信じ従う者たちの魂に関する権限をお持ちになっている事は天の御国でも認められているのです。

*エゼキエル34、エレミヤ23

  • 各羊を知っておられる:神は、人間一人一人を細かくご存知であられます。そうでなければ「神」とは言えないのです。もし一人一人の魂をつくられ、その人の体を母親の胎の中で組み立てられたお方*であるなら、当然その人の心を神は尽くご存知であられます。しかし羊飼いと羊、すなわち救い主イエスと救われた人物(クリスチャン)との間には、その上に親密さが加わります。親密に知り合うその関係は、御子イエスと父なる神の間のレベルにも到達するものであると言われるのです。** ものすごい事ではないでしょうか?そしてまた、通常この世の羊飼いたちが羊のために命を捧げる事がどれだけあるかはわかりませんが、偉大なる「良い牧者」であられるイエスは彼の羊のために命を捨てるのだと言われました。この時点では未来形で言われましたが、実際に十字架の上で人類のために救いの道を開いてくださった事を現代のクリスチャンたちは知っています。  

*詩篇139:14
**詩篇23、ルカ15:3-7、ヨハネ17:20-26

  • 羊飼いの声:羊たちは羊飼いの声を聞き分ける事ができるので、羊飼い以外の声からは逃げるとの事です。人が初めてイエスを知って従って生きていく決心をする時、その人は心に語られる聖霊の声を聞いてそれに従っているのです。つまり、イエスご自身の声を聞いて従っている事になります。本物の動物の羊たちならこのまま羊飼いの声だけに付き従います。これが理想なのですが、クリスチャンたちの場合は「イエス以外の声」、例えば悪魔が私たちを騙そうとする時、それを信じてしまってはいないか;唆そうとする時それに従ってしまってはいないかを度々吟味する必要があります。それは私たちの身の回りのあらゆる「声」となって聞こえてきます。自分自身の欲、罪だと分かっている快楽、怒りの感情(感情自体は悪くなくてもそれに流されると罪ある言動をとってしまったり、神に関しての曲がった観念を持ってしまい安いものです)、またはイエスの声に確信があっても周囲の意見に流されてしまったりもします。そんな形で「イエスの羊」である筈の人物が「間違った声」に聞き従ってしまう事態はいくらでも起こりうるのです。間違った場所に自分が居る事に気がついたらすぐにイエスの声に耳をすまして、偉大なる良き牧者のところに戻る事が重要です。聖霊が助けてくださるので、クリスチャンにはそれができるのです。
  • ほかの羊:イスラエルの民は「神に選ばれた民」と言う根強い誇りを持っていました。なので、当時のイスラエルでの一般的な「キリスト」に関する概念は、「イスラエルの救い主」「イスラエルの王」と言う事に焦点を置いていたものでした。*なので、異邦人を見下し懸念する姿勢も主流のものだったと言えます。ところが神が元々意図していたのは、イスラエルの国が周囲の国々の光となって異邦人を神に導く事でした。**  しかし、手前で述べられた通り、イスラエルはその理想の形に到達しませんでした。なので、神の「キリスト」に対する観念とイスラエル人の持つものとの間に大きなギャップが生じていたのでした。イエスが言われた「この囲いに属さないほかの羊」とは、神から直接与えられた律法や慣しの中で神を求めて生きてきたイスラル人とは違っても、それぞれの環境に中でイエスに出会う事ができた異邦人たちの事を指しています。異邦人の羊たちは現代では世界中のクリスチャンたちと言う形で、イエスキリストが牧する「一つの群れ」となっています。イエスはこの時、教会時代の始まりをここで予言されていたのでした。

*イザヤ9:6-7、ミカ5:2、イザヤ2:1-5
** 創世記12:1-3

十字架の預言:17〜18節

そのままイエスは次に、迫り来ていた十字架での死と復活を視野に、ご自身が父なる神に従って命を捨て、そして再びそれを得るのだと宣言されます。しかも、それは自分の意思でそうすると、誰もイエスの命を奪う事はできないのだと言われます。確かに十字架にかけられる前夜にも、イエスはご自身がそれを止める力があるが使わないのだと語っておられます。*  ご自身の意思で十字架に掛かられ、そしてよみがえられるのでした。人間の一人として、父なる神に十字架の死まで従われ、神としてその命を再び得られるのでした。**

*マタイ26:53、ヨハネ19:11
**ピリピ2:6-11

両極に分かれた反応:19〜21節

イエスがご自身の神性を宣言される時、周囲の人たちの意見が対立する事をこのヨハネ伝の中で度々見てきていますが、ここでも再びそれが起こります。多くの人たちは、イエスが悪霊につかれていると言う意見を持ちます。これは今に始まった事ではありませんでした。

しかしその他の人たちは、指導者たちを恐れず、「これは悪霊につかれた者のことばではない。」と言ってイエスのことばを信じます。しかも彼らは、あの盲人の目が癒された事を目撃していました。(おそらく本人もその場にまだ居たことでしょう)あの出来事は充分な説得力を持って、彼らの信じる決断の土台となったようです。

適用:

まだイエスキリストと出会っていないけれども、あらゆる角度からイエスの神性があなたにとって明らかになっている場合、聖霊の声 − つまりイエスの声を初めて聞いているのだと理解しているでしょうか? あなたのそれに対する反応は両極のどちらに進んでいますか? 

イエスの羊であると自覚している場合、偉大なる牧者の声があなたには今どの様に聞こえていますか? 日々、イエスの後ろを歩めているか、自分の心と言動を探る事は大切です。