宮を歩くイエス 22〜24節
前回の学び(1〜21節)の中でイエスが牧者、羊の門や羊たちに関して話されましたが、今回はそれと同じころの話である事が22節で語られています。冬に催されていた「宮きよめ」と呼ばれる祭の時期とされ、シーンはイエスが宮の中のソロモンの廊と呼ばれる所を歩いておられる場面が映し出されます。これまでにも何度かイエスはエルサレムの宮で捕らえられそうになり、石打ちにされそうになっておられ*、その上イエスをキリストだと信じる人物は宮から締め出されていたのです。それでもイエスは恐れることはなく宮の中を歩かれるのは他でもなく、神の家に神がおられて当然であると言う事なのでしょう。** あれだけ追い出そうとした相手がこうも堂々と宮の中を歩くのです。イエスを敵とするユダヤ人たちは悔しさを感じていた事でしょう。そして、彼らはこの場でイエスの口から神性を否定させようともう一度試みるようです。
「それでユダヤ人たちはイエスを取り囲んで言った。 『あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。』」 24節
*ヨハネ7:1、7:32、8:58〜59、9:22
**ルカ2:49
畳みかける宣言 25〜30節
もし本当に答えを知りたかったのなら、イエスはこれまでも様々な形でご自身の神性と、ご自身がキリストである事を表しておられたのですから、とうの昔に知る事ができたのでしょう。この時彼らは単刀直入に、イエスが預言されてきたキリストであるのかを尋ねれば、本人の口から否定する言葉を釣り出せるかも知れない。そう期待していたのだと伺えます。しかし、イエスの答えは否定からは遥かに離れた、ご自身の神性を具体的に表現するもので、次のような内容でした。
- 今まであなた方に話してきたことばが証明する。
- 今まで天の父の御名によって行なってきた業が証明する。
- あなた方がそれらを信じないのは、わたしの羊ではないからである。(前回を参照)
- この時彼らの心は初めからイエスを否定する姿勢だったため、救い主であられるイエスの声を聞き分ける意図はありませんでした。イエスはその理由として、彼らが始めからイエスの羊ではないからだと言われます。 つまり、イエスを信じるに至る人は、イエスの羊として神から選び定められているからであって、そうでなければイエスの声は聞こえないと言う事です。これは、私たち人間には計り知れない、探り切れない「神の選び」の神学* に触れています。この課題は私たちがやがて大いなる神のもとに辿り着くまで、理解しきる事はできないのかも知れません。もし、クリスチャンではなくてこれを読み、不安になるのであれば、偉大なる羊飼いであられるイエスの声が聞こえている状態にいる可能性を考えてみてください。そして神に向かってあなたなりの応答をしてみる事を勧めます。もし、クリスチャンであるなら、頭で理解し切れない事柄は神の手に委ね、イエスの羊として選ばていた事を単純に感謝して生きる事が大切です。
* ヨハネ15:16、エペソ1:11〜13等
- わたしの羊はわたしの声を聞き分け、わたしについてきます。
- わたしはわたしの羊を「知っている」。
- イエスの言う「知っている」と言うことばは、親密さを表しているようです。誰か「に関して」知っていると言う事と、誰か「を」知っている事は別ですね。例えば有名人やあまり仲の良くない人なら、その人「に関して」名前や顔、話し方を知っていても友達、家族と呼べる存在ではありません。その反面、相手「を」知る事はもっと個人のレベルでその人の人間性や性格、心の動きをお互いに親密に感じ取る関係が伴います。勿論、神であられるイエスは人間を一人残らずご存知です。しかし全ての人間がイエスに属し、愛し合う関係にある訳ではありません。それを考えると、イエスはご自身に属する羊「を知っている」と言われたのだと分かります。
マタイ7:21〜23
- わたしはわたしの羊に永遠の命を与えます。
- 父なる神がわたしに彼らをくださったので、誰も父からもわたしの手からも彼らを奪い去る事はできません。
- クリスチャンであるなら、この御ことばに確信を持つ事が重要です。真に偉大なる牧者であられるイエスと出会ったなら、その人はどんなに失敗しても、神から離れてしまっても救いと永遠の命を失う事がないのです。
* ローマ書8:38〜39
- わたしと父は一つです。
- これは、「キリストなのか」と言う問いに率直に「そうである」と答えているだけでなく、紛れなくご自身が父なる神と同一の存在だと語られているのです。結局、彼らが望んだ否定の言葉どころか、イエスの神性を宣言する言葉が返ってきたのです。ここで、「もしこれが本当だったら?」と考える意図は持たず、彼にはかえってこのことばが、「冒涜罪」と言う事でイエスを殺すための都合のいい理由となったようです。
今度こそ石打ち? 31〜33節
これらのイエスの宣言は畳みかけるように彼らに降りかかってきたのでした。とは言ってもイエスは何も今までと変わった事は言われませんでした。しかし、最後のポイントが引金となり、「今度こそ」と言わないばかりに彼らは石を取り上げます。 イエスは彼らに、ご自身が行なってきたどの業の為に自分を殺そうとするのかと尋ねます。興味深い事は、語られたことばの何が気に入らないのかと言うのではなく、自分が行なってきた業に焦点を置かれています。これに関しては少し後にもっと深く触れられます。ユダヤ人たちは、「あなたのわざの話をしているのではない」と言います。それもそうでしょう。目の当たりにしてきたイエスの多くの奇跡はどれも彼らに否定できるものではなかったのです。「良いわざの為に石打ちにするのではなく、冒涜の為だ」と彼らは答えますが、「良いわざ」と「冒涜罪」の二つの課題にイエスは真っ向から挑戦されます。
「あなた方は神である」?? 34〜36節
まずは冒涜の疑惑に関して、イエスは傍から聞くと理解に困難な論理を返されます。34節〜36節での「神」の話は、旧約聖書の詩篇82篇から引き出されたものであるとも信じられています。その詩の中で、神はその時代にご自身が任命した裁き司たち(裁判官の様な存在)を、ご自身の裁きを象徴する存在として「小さな神々」と言うニュアンスで神ご自身が彼らを「神」と呼ばれていたようです。(当然の事、人から拝まれる対象と言う意味ではありません。)因みにこの詩篇は、神がその裁き司たちの不公平でいい加減な裁きの下し方を嘆いておられ、彼らがご自身を代表する「神々」と言う存在からはかけ離れたものである事を強調しておられたようです。
その箇所から持ち出されたイエスの反論の要点はこんな感じになると言えます:「もしただの人間であるあなた方でさえ、父なる神から「神」と名付けられたのであれば、尚更の事、本当の神の子である自分が神性を宣言して何が悪いのだ。」 例えて言えば、居候の身の人物が「家族の一員」と呼ばれても実際の家族ではなく、同時に実の息子が自身が家族である事を主張するのは当然の事であるのと同じ線の話と言えます。
「スルー」はさせない 37〜39節
彼らは、都合の悪い「イエスのわざ」に関しては流してしまおうとしていたようですが、イエスはしっかりそこに戻られます。
「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、信じないでいなさい。しかし、もし行っているのなら、例えわたしの言うことを信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」37〜38節
つまり、イエスが行ってきたわざは彼らが見て、イエスの神性を信じる事ができる為のものだったのだと言う事です。確かに言葉だけで行動のない人物は信頼できません。イエスの場合は行いが充分にイエスのことばを立証するはずだったのですが、それを彼らはスルーしようとしていたのです。イエスの論理に追い込まれた彼らはとうとうイエスを捕らえようと試みますが、またしてもイエスはこの場を逃れられます。
友の居た場所 40節
この後、イエスは少し離れた場所、ヨルダン川の向こう岸で、以前バプテスマのヨハネが洗礼を授けていた移動されます。エルサレムのユダヤ人たちとのやりとりで、イエスの心は疲れていた事が想像できないでしょうか? 愛するヨハネの居た場所、彼からバプテスマを受けた場所、ヨハネが公表でイエスをキリストであると宣言した場所、最初の弟子たちと出会った場所;そこはイエスの宣教が始まった場所だとも言えます。イエスはこの場所に来て心を休めておられたのでしょうか?
ヨハネ1章、マタイ3:13〜17
純粋な心 41〜42節
この時もまた人々がイエスの周りに集まって来ます。エルサレムからついて来た人達でしょうか? おそらく殆どはその周辺に住んでいた人達でしょう。この人たちもその場所からやはりバプテスマのヨハネを思い出していたようです。彼が以前にイエスに関して話した事とイエスのこれまでの言動を思い起こして、ヨハネがイエスをキリストであると語ったのは真実であったと確信したのでした。この人たちは、エルサレムのユダヤ人たちとは正反対で、イエスがこれまで行われてきた奇跡や行いを吟味し、イエスが実にキリストであると言う結論に至ったのです。純粋な心が神からのしるしと向き合う時、真実をつかむ事ができるのです。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
マタイ5:8
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