この時、イエスはエルサレムから30Kmほど離れたヨルダン川の辺りで人々を教えておられたと、10章の終わりの話から想像できます。イエスを殺そうとしたエルサレムのユダヤ人たちの手を逃れてやってきた後、純粋な心の人たちと共におられ(前回を参照)、弟子たちも胸をなで下ろしていた事でしょう。そんな最中、エルサレムの隣町のベタニヤから、「来てください」と言う伝達が入ったのです。弟子たちの心はまたしても動揺したのではないでしょうか? 今回のユダ地方への旅は(エルサレムもベタニアもユダ地方にあるので)、想像していない出来事が待っていたとを、この時彼らは知りませんでした。

知らせ  1〜4節

イエスに知らせを送ったのは、ベタニヤに住む二人の姉妹でした。姉妹はマルタとマリヤと言う名で、ラザロと言う兄弟がいて、この3人はイエスととても仲が良かった事が他の箇所からも伺われます*。知らせとは「ラザロが病んでいるから来てほしい」と言うものでした。イエスはつい最近まで、彼らの近くにおられた事を考えると(8節からの推測)、長期にまつわるものであればイエスが居たうちに癒しをお願いできたのです。それを視野に入れると、イエスがヨルダンに行かれた後、ラザロは何かの急な重い病気にかかったようで、危ない状態に落ち入り、姉妹たちはイエスに知らせを送ったと考えられます。この知らせに対してイエスは、この病気は死で終わるのではなく、ご自身が神の子としての栄光を受けるためのものだと語られます。

*ルカ10:38〜42、ヨハネ12:2、マタイ26:7〜13、マルコ14:3〜10

愛と裏腹に 5〜6節

イエスがラザロと彼の姉妹たちを愛しておられたと、5節に記されています。神ご自身の人間一人ひとりへの愛に加えて、これはやはり人間としてのイエスが彼らと共に時間を過ごし、多くを語り合い、個人的に深く通じ合った愛がそこには存在していた事がわかります。この様な“友情の愛”はクリスチャンとしてもイエスと時間をとって心をイエスに注ぐ事によって育まれると事は言うまでもありません。

しかし、その友情愛とは裏腹に、イエスは急いで出向く事をなさらず、もう後二日間その場に滞在されたのでした。 弟子たちは、行かないものだと安心していたでしょう。イエスは遠距離で人を癒した事だってあったのですから*、きっと同じ様にラザロをも癒しただろうと思っていたかも知れません。ところがこの時、イエスはラザロが既に死んでいた事知っていて、あえて時間をおかれていたようです。

*ヨハネ4:43、ルカ7:1〜10

昼間に歩く 7〜10節

そんな経緯で尚の事、「もう一度ユダに行こう」とイエスが言われた時弟子たちは焦りを見せているようです。「エルサレムで石打ちにされそうになったのに、また行くんですか?」と言う反応でした。これに対してイエスは9章で語られた「昼の間に働く/歩く」事を繰り返して語っておられます。この世の光、御子イエスに目を留めている限り、父なる神の御心を行う事ができるのです。なので、イエスから目を離して歩こうとすると「光がその人のうちにない」ので躓くのだと語っておられるのが分かります。イエスもまた、父なる神が許されない限りは、人間の手によって死ぬ事はないと知っておられたので、ユダに向かう事に抵抗はなかった事でしょう。

謎めいたことば 11〜16節

「わたしたちの友、ラザロは眠っています。しかしわたしは彼を眠りからさましに行くのです。」少し遠回しだったイエスのことばを聞いて弟子たちは、その意味を感じて「まさか」と思ったでしょうか? 言葉通りに解釈したい気持ちが強く、それを確認したかったのか、「眠っているなら彼は助かるでしょう」と返します。イエスはこうやって彼らの心を備え、言葉の衝撃にクッションを置かれているかのようで、そのすぐ後に「ラザロは死んだのです」と率直に告げられています。

続いて、更にこれからご自身がなさろうとしている事に彼らの心を備えておられるように、「あなた方が信じるために、わたしがそこに居合わせなかった事を喜んでいます。」と語られます。愛する友が死んでしまう時にそれを止めないでいる事はイエスにとってはとても辛かったに違いありません。しかし、それによって起こる事が弟子たちの信仰の為に大きく益になる事を知っておられ、それを喜んでおられたのです。弟子たちは既にイエスを神の御子だと信じていました*。しかし、人間の習性でしょうか、ずっと一緒にいるとそのイエスの偉大さに鈍くなっていたかも知れません。迫り来ていた十字架が弟子たちに試練をもたらす前に、これから起こる出来事によってご自身の神性を再び彼らに焼き付けようとしておられたかのようです。 

*ヨハネ6:68、マタイ16:15〜16

「さあ、彼のところへ行きましょう。」とイエスが声をかけられると、トマスの威勢の良いかけ声が続きます。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」イエスの言葉が全て理解できていなかったかも知れません。しかし、例え殺されかけた場所に戻るとしても主イエスの側を離れないと言う意気込みです。ここにトマスのイエスに対する愛と献身が映し出されてはいないでしょうか?

「よみがえり」であり「いのち」であられる方 17〜27節

イエスの一行がベタニヤに辿り着いたのは、ラザロが死んでから四日も経っていた時でした。多くの人がエルサレムからもこの姉妹を慰めに来ていて、この時点で人々がイエスを見て騒ぐのを避けておられたのか、村の外側で姉妹を待たれます。イエスが来ていると言う知らせを受けて先にマルタがイエスに会いに行きます。マリヤはこの時、失望に打ちひしがれていたのかも知れません。直ぐに来てくれなかったイエスに苦い気持ちになっていた可能性もあり得ます。

マルタの場合も、その苦味を思わせる言葉でイエスを迎えます。率直に彼に向かって言います。「主よ、もしここに居てくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」それともこの言葉には、イエスの力を心得ている概念があったかも知れません。次にくる彼女の言葉にその節が響きます。「今でもあなたがお求めになるものは、何でも神はあなたに与えてくださる」と言うものでした。それは、イエスがこの時点であっても奇跡を起こす事ができると心得ていた言葉でした。しかし、彼女は慎重です。「ラザロはよみがえります」と言うイエスの返事に過激な期待をするまいと「わたしは終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえるのを知っています。」と言ったのでしょうか? イエスの言葉の意味を探っていたのかも知れません。因みに、マルタの持っていたこの知識は、おそらくダニエル書12:2〜3節にある預言からのものか、又は直接イエスから教わったとも考えられます。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬ事がありません。」

イエスご自身がよみがえりであり、いのちなのだと言っておられます。命も死からのよみがえりも神ご自身から来るのであるなら、これはイエスの更なる神性の宣言です。イエスは終わりの日に信じる人々を死からよみがえらせると言う約束も以前にしておられます*。次に来た「決して死ぬ事がない」と言うことばは、矛盾しているのではなく、その人の魂が第二の死**に至る事はないと言う意味です。イエスを信じる者は皆、神の国での永遠の命を得ているのです。

*ヨハネ6:40     **マタイ10:28、黙示録21:8

「この事を信じますか?」と言うイエスの問いに、マルタはすぐにはっきり答えました。「はい、主よ。私はあなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」これは明らかなイエスに対する信仰告白ですね。マルタは辛い状況の中でもイエスに栄光を帰す事を忘れませんでした。ここにイエスがラザロや彼の姉妹たちを「愛された」の意味が伝わってくるようではないでしょうか?


適用:

祈りが直ぐに叶えられず状況が悪化する時、私たちは神が愛を持って自分の状況をコントロールを握ってくださっている事を信じて委ねる事ができるでしょうか? マルタのように、神からの最善を信じ、「今でもあなたは奇跡を行う事ができる」と言う気持ちを持てるでしょうか?