イエスとマリヤ 28〜35節

一通りイエスと会話をしたマルタは次に妹のマリヤを呼びに行きました。イエスがそうするように言われたようです。イエスの所にすぐさま駆けつけたマルタとは打って変わって、マリヤは悲しみに潰されていたのでしょうか? イエスが呼んでくださっていると聞くまで動こうとしませんでした。マリヤもまたマルタと同じ言葉でイエスを迎えました。「主よ、もしここに居てくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」しかしマルタの時のようなイエスに栄光を帰す言葉は続きませんでした。想像に過ぎませんが、直ぐに来てくれなかったイエスに対して苦い思いも抱いていたのかも知れません。しかしそうであっても私たちも同様に、イエスに対する気持ちがどの様なものであっても、心をそのままイエスの所に持ってくる事はとても重要な事なのです。イエスもまた、悲しみの中にある二人の姉妹をまとめて勇気づけるのではなく、別々に接しておられますね。イエスは私たち一人一人の心に一対一で接してくださるお方なのです。そんなイエスと向き合う時、どんな心の状態であっても、イエスは心に触れてくださるのです。

共に住まわれる神 33、35、38節

マリヤと彼女に付き添っていた人々が悲しんでいる姿を見て、イエスは「憤りを覚え、心に動揺を感じて」、「涙を流された」とも書かれています。ここで興味深い事は、イエスはこれからご自身がなさろうとしていた事を既に知っておられました。それはこれらの悲しみをぶっ飛ばす大きな事であったにも関わらず、イエスは心を痛められたのです。私たちの上に試練が訪れる時、この事を覚えておきましょう。人には計り知れない神の計画の故に、神は様々な悩みや悲しみが度々私たちを襲う事をお許しになられます。それらの試練を通して神がなさろうとしている事は、その苦難とは比べ物にならないほど素晴らしい事であると聖書は語ります。* しかし多くの場合、私たちにはその計画が分かりません。分からないまま一生を終えるかも知れません。そんな中で、神は「終わり良ければ全て良し」と言って満足しておられるのではなく、私たちと同じ次元の中で、悲しみ苦しむ私たちを見て、悲しみ苦しんでくださいます。神は私たちと同じ次元で共に住まわれるお方なのです。

*Ⅱコリント4:17

ラザロの墓で 36〜37節

次の時点ではイエスは既にラザロの墓の前に案内されながら歩いていた様です。イエスが悲しむ者たちと共に悲しんでおられるのを見ていた周囲の人たちの意見も二つに別れ、ある人たちはイエスのラザロと姉妹たちへの深い愛を認識しましたが、他の人たちはイエスがもっと何かできた筈だと言う「上から目線」の考え方でした。今の時代でも、多くの人々は聖書に書かれているイエスの言動を取り上げて、何かと避難する事を選びます。悲しい事にそれが純粋な疑問からなのではなく、イエスを信じて従わない為の口実にするためが多いのも見受けられます。

確信に満ちた祈り 39〜42節

墓を前にしてイエスが周囲をギョッとさせる命令を下されます。それはほら穴式の墓を塞いでいた大きな石を取り除けなさいと言うものでした。「何をする気だ?」と皆が思った事でしょう。イエスはこれまでの3年間の宣教の中で、死んだ人をよみがえらせた事が他にも二度あった事が聖書の中に記録されています。しかしそれらはいずれも、亡くなられた直後か*、又は墓に葬られる手前の時点**でした。しかし今回は、ラザロが死んで四日も経っていて、墓の中で彼の体が腐敗し出しているだろうと言う時点でした。なので前回までの奇跡とは違って、流石に墓の中で何日か経っている場合は例えイエスであってもどうする事もできないであろうと言う先入観がそこにいた人たちにあった事でしょう。ついさっき、イエスへの信仰をハッキリと告白していたマルタでさえも例外ではありませんでした。

*マルコ5:35-42   **ルカ7:11-17

マルタと言うこの女性は、客をもてなす事を重視する人物として象徴されています。その理由としてルカの福音書に出てくる話*が有名です。愛する兄弟を亡くした時でさえも、直ぐ様イエスを迎えて敬意を表す面でもそれが分かります。しかしイエスが墓の前の石を取り除けるように命じたこの時、彼女はどうも少しパニックになった様に言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」先程のイエスとの会話の中では(前回参照)、今でもイエスが神に求めれば何でも叶えられる事を心得ていると行った後、「ラザロはよみがえる」と言われたイエスの言葉に過激な期待をしまいと気をつけていたのが分かります。そんな姿勢の中で、死体と関わる事に関しての律法が厳しい文化を背景に*、しかも葬儀を取り仕切る役目をも果たしていたであろうマルタにとって、墓の石を除けるイコール律法を守る事への不都合の可能性、異臭で来客達に迷惑がかかる、ラザロの威厳を損なう等の心配が先に彼女の心を占領したようです。

*ルカ10:38-42

そこでイエスはマルタに、「信じる者は神の栄光を見る」と言う話をされます。これまでの何処かの時点でそうマルタに話しておられたと思えます。そしてイエスは父なる神に向かって祈り出されます。内容としては、「父よ、今回もいつもの様に私の願いを叶えて下さる事を感謝します。この人たちが、あなたが本当にわたしを遣わしてくださった事を確信できるように、あえてこの感謝を彼らの前で言葉にします。」と言うものです。この祈りは、神の御子であられるからこそできた祈りと言う他はありません。普通の人間がこんな風に祈ってもこの後に奇跡が続かなければ大恥に終わってしまいます。イエスが墓を開けさせ、こんな大胆な祈りをされたのは、当然の事、神の御子としての確信に満ちておられたからです。

衝撃の奇跡 43〜44節

「ラザロよ、出て来なさい。」 

究極の一言を大声で叫ばれました。人々が「嘘だろ?」と思ったところで、イエスの声に続き墓の中から、白い衣を着た、死んでいるはずの人物が、顔、両手、両足を包帯で巻かれた姿で出て来たのです。これには流石に、地面にひれ伏したり、腰を抜かした人もいたのではないでしょうか?「ほどいてやって帰らせなさい。」のことばで我に返ったマルタをマリヤが恐れながらも喜びの涙を流しつつ、ラザロの包帯を解く二人の姉妹の姿が目に浮かばないでしょうか?

魂の火遊び 45〜46節

この場で多くの人々がイエスが神であり、キリストであられる事を信じるに至りました。しかしこれまで見て来たパターンと同じで、両極化をここでも見る事ができます。ある人々はパリサイ人にわざわざこの事を報告しに行ったのです。なぜでしょう? それは、指導者たちの目に良く写りたいと言う思いや得点稼ぎのような気持ちがあったかの様です。彼らは今自分たちが見た衝撃的な奇跡が、イエスを信じる事ができるように送られた神からのこの上ないしるしである事を悟るよりも、自分たちの栄養を優先したのが明らかではないでしょうか? 「信じまい」と心を頑なにする人たちは、これだけ究極的な奇跡を見せられても信じない事を選びます。光明に見せられても目を閉じると言うこの様な姿勢は、やがて神の前に立たされる時の事を考えないもしないで、自分自身の魂に火遊びをさせている事になるのです。*

*マタイ12:22-32

大祭司による「預言」 47〜52節

これを聞いた指導者たちも流石にとうとう本気で焦ってきたようで、早速にも「サンへドリン」と呼ばれる70名のメンバーで形成されている最高議会を呼び集めた緊急会議です。この焦りはイスラエルの民が自分たちではなくイエスを教師として敬う事で、自分たちの地位や栄養が廃れてしまうと言う事だったのはこれまでの彼らの言動から考えても明白です。すなわち「僻み」だったのでしょう。それでも宗教議会が僻みみんなで共に認める訳にはいきません。それなので政治的な理由が建前となったのではないでしょうか? 

そうは言っても彼らのこの建前上の焦りも隅に置けるものではありませんでした。「全イスラエルがイエスに付き従うのであれば、ローマ帝国が黙って見ている訳が無い、土地も国民も奪い取られてしまう』と言うものでした。 確かに、一人の人間にその国の民が揃って付き従うのであれば、それは一人の王が生み出されたと見做され、ローマ帝国を挑発する可能性は大きいものでした。筋の通った論理でしたが、ご自身の民を守られる神の力を忘れた論理だったとも言えます。

こんな話がされている中、大祭司カヤパが声明を出します。それは、この民を守るためにならイエスを殺しても良いのだと言うものでした。それは、一人の人が民の代わりとなって死ぬ事は仕方がないのであって、イエスを殺す事は止むを得ないのだと言う口実だったと言えるでしょう。

このカヤパの発言に対して著者ヨハネは、「それはカヤパが無意識に、御子イエスがイスラエルを始め全世界の神の民を集めるために人類の身代わりとなって贖いの死を遂げようとしておられる事を言葉にしていたのだ」と語っています。神は、預言をしている意識が本人に無かったとしても、大祭司と言う立場に立っていたカヤパの口からこの贖いの計画を告げさせていたのだと言う事です。この日を境に、指導者たちはイエスを殺す事を本格的にそして堂々と計画するようになったのです。そのため、指導者たちはイエスを指名手配にかけたのでした。

その事を知っておられた主イエスは弟子たちと共に、一時的に荒野の地方のエフライムと言う町に退いておられました。殺されない為ではありましたが、人間のタイミングで死ぬのではなく、神の計画のタイミングで人類を購う為でした。