「過越」として知られている大きな祭り* が近づいていました。それは、その時から1500年ほど歴史をさかのぼり、モーセが神に命じられてイスラエル人をエジプトから導き出した日を記念する祭りでした。この祭りを祝う為に全イスラエルから多くの人々がエルサレムにやって来ます。しかし、この年の過越の祭りは例年とは違って張り詰めた空気が感じられたに違いありません。11章の最後にイエスがとうとう指名手配にかけられた事を学びました。イエスが現れるかどうかが人々の間で吟味されていたのです。祭りの当日が近づくにつれて人々はイエスの姿を探した事でしょう。
*出エジプト12章
指導者たちがご自身の命を狙っていたのを知っていたので、イエスはベタニヤから一旦エフライムと言う場所に退いておられました。イエスがそうされた理由は「身を守る為」と言う事ではないでしょう。これまでも危ない目に会ってこられましたが、害を受けられる事はありませんでした。神の時がまだ来ていなかったからだと聖書は語っています。そして指名手配であろうが何であろうが、行かれる時は誰を恐れる事もなく、堂々とその場に現れるのがイエスのこれまでのパターンでした。そしてそれはこの過越しの祭りの時も例外ではありませんでした。むしろこの時は救い主としての一番大きな役目を目の前にしておられ、その準備段階に入っておられたのだと想像できます。
ベタニヤへ 1節
過越の祭りへは多くの巡礼者たちがイスラエル全土から神殿のあったエルサレムを訪れました。そんな事からエルサレムでの宿はすぐに埋まってしまうため、周辺の町々でも宿が提供されていました。エルサレムから3㎞ほどの場所にあったベタニヤもこの頃にはとても多くの旅行者たちが寝泊りしていたようです。エフライム地方におられたイエス一行もまた、祭りに合わせて再びベタニヤにもどり、今回もどうやら例の仲の良いラザロと姉妹たちの家に来られていたようです。
マリヤの香油 2〜3節
イエスが前回ラザロをよみがえらせた出来事から、ベタニヤの人々や各地から来ていた巡礼者たちが集まり、イエスたちの為に「晩餐を用意した」と書かれてあります。大きなパーティーを想像できないでしょうか? マリヤが忙しくし、ラザロがイエスと共に食卓についていた間、マリヤはどこにいたのでしょう? おそらく自分の部屋で大切にとってあった「ナルド」と言う香油を取り出していたのでしょう。この高価な香油は女性が長年かけて少しづつ溜めていき、結婚する時に使ったものであると言う話もあります。マリヤはこの香油をイエスのために使いました。300gほどあったその香油を、食事をしておられたイエスのところに持って行き、彼の足にそれを注いだのです。それに続いてマリヤは、当時の文化では女性が人前で髪を下ろす事がタブーであったにも関わらす、自分の髪でイエスの足からその香油をぬぐったのです。この時マリヤはイエスを礼拝する心でそれを行なっていたのが分かります。香油に関しても、髪に関しても彼女はイエスに自分の最も大切なものを差し出したのです。しかもそれはイエスの足のためでした。彼女はこうやって、イエスは「足」の部分でさえもナルドの香油を受ける価値があるお方なのだと表現していたのでしょう。この思想は、ヨハネ1:27にある、バプテスマのヨハネの言葉にも読み取る事ができます。
ユダの叱責とイエスの弁護 4〜8節
この時点で、数日後にはイエスを裏切ろうとしていたユダがマリヤの行為を責めます。特に貧しい人たちを心配していたわけでもなかったユダが、マリヤのした事は勿体ない事であり、別の使い方があったと責めたのです。これは金銭欲の激しいユダがマリヤの行動を見て苛立ち、貧しい人たちを引き合いに出して自分の怒りを正当化させたかったのでしょう。
イエスはこれご覧になり、マリヤを弁護されます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(7節) 当時は、人が埋葬される時にも香料をその人の体に塗ったりしていたそうです。これまでイエスが何度か、ご自身が十字架につけられる時が来ると語って来られましたが、弟子たちはそれを理解しなかった*事とは正反対に、少なくともマリヤはわかっていたのではないでしょうか? ここでイエスが突いていた要点は、お金をどう動かすかと言う「合理的な行動」よりも「神を敬う心」の方が神には遥かに尊重され喜ばれると言う事なのでしょう。イエスの言われる通り、助けるべき人たちは常に周りにいるのですが、神をまず第一とする心を持つ人にはやるべき時にやるべき事をする資源も備えられるものなのです。**
*マタイ16:21、17:22-23、マルコ8:31、ルカ13:33、18:34
** ヘブル9:8
エルサレム入城 9〜19節
「あのイエスが再びベタニヤに戻っている。そしてそこにはイエスがよみがえらせたラザロもいる。」この話は過越に備えてエルサレムに既に来ていた人たちやエルサレムの住人たちの間で広がり、大勢がベタニヤにこの二人を見るためにやって来ていたと言う事です。祭司長たちは人気をイエスにとられた事にラザロが絡んでいる事から、イエスだけでなくラザロをも殺そうと企んでいましたが、実際にその計画が通ったかは書かれていません。しかし、イエスが御子としての栄光を表したその証として生かされているラザロが彼らの手によって殺される事を、神が許された可能性は考え難いものではないでしょうか?
次の日、イエスはとうとうエルサレムに出向かれます。その話がわかった時、エルサレムに走って人々にその事を伝えた人たちもいたのでしょう。エルサレムからは更に多くの人たちが出迎えのために出て行きしゅろの木の枝を手に持ってイエスを出迎えに行きます。それはそれは盛り上がったものです。このエルサレム入りで人々は王を迎えるごとくイエスを迎えます。そのため神学用語ではこの出来事を「エルサレム入城」と呼んでいます。
イエスは一匹の子ロバを手に入れ、それにまたがりエルサレムに向かわれます。(ロバに関する経緯はマタイ21:1〜11を参照)この時ばかりはご自身の足でではなく、ロバに乗ってエルサレムに向かわれた事は、実は大きな事柄を宣言していたのです。旧約の中で、「イスラエルの王がロバに乗ってエルサレムに現れる」と言う預言がゼカリヤ書9:9〜10の中にあり、それが15節で引用されています。人々はそれをキリストに関する預言であると認識していて、イエスがキリストであると見定めて盛り上がっていたのです。「ホサナ!(「救う方、救ってください」等を意味する)祝福あれ。主の御名よって来られる方に! イスラエルの王に!」と誰もが叫んでいた事でしょう。
…が…
パリサイ人たちの焦りやイエスに対する怒りが増す一方で、盛り上がっていた大半の人たちは「キリスト」と言う存在に関しての定義を間違えて理解していた事も推測できるのです。例えば6章でも、人々がイエスのパンと魚の奇跡を経験した事から、イエスを都合の良い王様に仕立てようとした事を学びました。そんな風に多くの人たちの「キリスト」の定義は、当時のローマ帝国からイスラエルを救い出して解放してくれる「王様」だったのです。「この人が王だったら楽をして食べていけるし、死人だってよみがえらせてくれる。これ程に都合の良い王様は他にはいない。」そう結論付けていたのでしょう。その心の状態を裏付けるかの様に、この一週間後には、イエスが指導者たちに捕らえられるのを見て、エルサレムの人々はそれらの希望を失い、今度はイエスを裏切り「彼を十字架につけろ」と叫ぶ事態に発展するのです。*
*マタイ27:20-23
イエスを訪ねたギリシャ人たち 20〜22節
エルサレムに入城された時、イエスを求めていた人の中にはギリシャ人たちも居たと事が書かれてあります。旧約の時代から、周囲の国の人々はイスラエルを通して真の神の存在を目前として来た事が伺えます。そして、その神を求めてイスラエルに移住したり、神殿の行事などに参加したりする異邦人たちの姿は稀ではなかったようです。ここに出てくるギリシャ人たちも心から神を求める中で、イエスの言動に魅かれていたのでしょう。彼らはイエスの元に来ようとしてピリポやアンデレに相談します。この二人の弟子たちがベッサイダの出身である事が書かれていることから、ベッサイダがギリシャ文化の影響を受けていた地方であり、ギリシャ語も話せる人が多かったであろうと言う説明もあります。
一粒の麦 23〜26節
これに対してイエスは少し変わった反応を見せます。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言うものです。「十字架」と言う最も厳しく、恐ろしく、それであって最も重要なイエスの使命が間近に来ていました。しかしこの時イエスは更にその十字架の死の先を意識しておられたかのようです。異邦人であるギリシャ人たちの訪問は、十字架を通してイエスの救いが世界中の人々に届くようになる事を象徴していたかの様です。それを視野に入れると、イエスが続けて話をされた「一粒の麦」の話が理解し易くなります。
一粒の麦が胚芽するためには、まず始めにそれが土の中で裂けてしまわなければいけないのですが、イエスはこの現象を持ってご自身がこれから通らなければならない十字架での死とその意味を例えられたのです。ご自身が死ぬ事によって、世界中の神を求める人々に永遠の命を与える事ができてしまうと言う「豊かな実」を結ぶのだと語っておられます。
ところが、その一粒の麦の胚芽のプロセスを私たちが眺めているだけでは駄目なようですね。イスラエルの文化の中で、何かに対する愛を表す時、その反対を「憎む」と表現する事でその「愛」の強さを表現していたそうです。なので、本格的に何かを憎む事とは違っていたそうです。ここでイエスが、人が自分の命を愛する/ 憎むで表現しておられるのは 、自分の人生を愛するがあまり、それを自分のコントロールの中に収めてしまい、神がその人生を導く事を許さない心の状態であるならば、救いに辿り着かない場合もあれば、救われていても実のないクリスチャンとしての人生を送る事もあるでしょう。そうなった場合、その人の人生は虚しさの中に留まり、「命を失った」形になります。逆に、自分の生き方ではなく、神の国と神の義をまず第一に求める*生き方であるなら、その人は「この世で自分の人生を憎」んでいると表現されます。
*マタイ6:33
要点としては、イエスに従うと言うのであれば、イエスに見習って同じ様に「一粒の麦」になる事によって「私について来なさい」と言っておられるのです。イエスに従う事を選ぶのであれば、永遠の命が与えられ、また豊かな実をならす(つまり、神との親密さが増し、その人の人生及び周囲の人々の信仰に導いたり励ましあったりするのが表れてくる状態)事になり、また反対に自分の人生の梶を離さず、神の導きを拒むのであれば、自分の命、または魂を失う事になる*のだと警告されています。死んで多くの実を結ぶ「一粒の麦」になる事は、「イエスのおられる所」– 主の御心のなる状況に、イエスに仕え、主との深い交わりを持つものとして共に居ると言う事なのです。
*マタイ16:26
適用:
私たちは、主イエスを自分の「王の定義」にはめ込まないように気をつける事が大切ですね。マリヤの様に主イエスのことばを理解したならば、それを献身的な行動に移す事によって、「イエスのおられる所に共に居る」事ができるのです。
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