イエスを訪ねて来たギリシャ人たちを前に、イエスはご自身がこの世に来られた最大の目的である、「十字架」と言う使命の時がついに来た事を意識し、「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と前回の学びで語り出されました。明らかに、十字架がもたらす素晴らしい結果を意識してのことばです。 今回はそこから続けて語られる場面に入ります。
27〜30節 父なる神の声の
27節でイエスはご自身の心が騒ぎだしていると明かされています。十字架がすぐそこに迫って来ている事を知っておられたのです。しかし、ご自身の最大なる使命と向き合って絶対にそこから逃げ出す祈りはしまいとの決意を語っておられます。そして、そのまま父なる神に向かって、「父よ、御名の栄光を表してください。」と祈られます。
「私はすでに表したし、またもう一度栄光を表そう。」その父からの答えは周囲の人々の耳にも聞こえるものでした。内容としては、このように解釈できます。イエスの生涯を通して父なる神は、イエスのことばや奇跡を通して幾度もご自身の臨在と愛と聖さなどを人々に啓示してこられました。そして、迫りくる十字架と復活によって魂の救いを人類にもたらす業を通して新たに栄光を表すと意味されたと思えます。
この神の声が聞こえていた群衆の反応は大きく二通りに分かれます。片や現実逃避に走り、「今のは雷だった」決めてしまい、もう一方では逆に「天使の声だった」と父なる神の声として受け付けるまでには至りませんが、イエスを「天国側の存在」として認める解釈するのが精一杯だったのでしょうか? イエスはこの声に関して、それがご自身の為ではなく彼らの為だったと語られます。この声は父なる神がイエスのことばを立証して人々を確信させる為のものでした。僅かではあっても弟子たちの他にこの声をハッキリと受け止めた人たちもいたと信じたいものです。
31〜34節 この世を支配する者を追放?
イエスは続けて、「この世を支配する者が追い出される」と言う話をされます。聖書は度々、悪魔の存在に対してこのような呼び方をします*。これから遂げられる、十字架の死 ― ― (ここでは「地上から上げられる」と表現されています)を通して、イエスは全ての人を悪魔の支配下からご自身のところへと導くのだと言っておられます**。確かに神はすべての人を導いておられます***。しかし、全ての人がその導きに応じて悔い改めに至り、救いを受け入れる訳ではない事は言うまでもありません。
* ヨハネ14:30、16:11、エペソ2:2、Ⅱコリント4:4
** ローマ 5:4、Ⅱコリント 5:18、Ⅰコリント 15:3-4、マタイ20:28、Ⅱペテロ 1:18-19, 2:24
*** Ⅱペテロ 3:8-9、使徒 17:26-27
イエスがご自身が死ぬ事をほのめかしておられた事を群衆は納得できなくなりました。なぜなら、キリストの支配は永遠に続く者であると預言されていたからです*。イエスはご自身が死から復活される事をも、これまで人々に告げて来ておられますが**、人々はそのような理解し難い概念は受け入れない事にしていたかも知れません。ここにいた群衆は、ついさっきロバに乗ってエルサレム入城をなされたイエスを、この人こそがイスラエルを救い出すキリストであると、大喜びで迎えた同じ群衆なのです。ところがこの時点では彼らが十字架の予告を聞いて大いに落胆しているのが読み取れます。
* Ⅱ歴代誌 22:10、ダニエル書 7:14等
** マタイ 27:63
35〜37節 光あるうちに
彼らの心が頑ななのをご覧になり、イエスは彼らに、光がある間にその光の中を歩くように呼びかけておられます。この「光」を神から人々への啓示、又はことばと理解します。御子イエスは父なる神のことばがそのまま人となられた方ですから*、彼がその啓示そのものであられ、その「光」だと言う事になります。そのイエスが彼らの前で語るのはもうこれが最後だった為、「今のうちに早く心を開いて私を信じなさい。」と言われるのです。悔い改めてイエスを呼び求めるなら、人は神の子供として生まれ変わるので、イエスはそれを「光の子」と呼んでおられ、現代ではそれを「キリストに基づく者」と言う意味でクリスチャンと呼びます。神が与えようとしてくださっている「御子イエス」と言う救いの光を除いては、他にそれに代わる光は何処にもありません**。ハッキリと示されていながら拒絶するならば、その人の心は更に硬くなり、その人の歩みもまた一歩神から離れ暗闇の中を歩いてしまうのだとも聖書は警告しています***。
*ヨハネ 1:4
**使徒 4:12、ヨハネ 14:6
*** Ⅱサムエル 22:27、詩篇 18:26、ローマ書 1:28等
イエスの十字架が迫っていたこの時、イエスは人間として彼らのそばにおられました。「光がある間に歩きなさい」とはその状況に当てられていたと言えますが、どの時代に住む人にも当てはまるものなのです。現代では聖書や教会の存在と聖霊の働きがあり、神の奇跡的な導きがどんな状況に住んでいても神を求める人物に臨むと言う聖書の約束があります*。拒み続ける事は自身の魂で火遊びをしている事になってしまします。
*申命記 4:29、エレミヤ書 29:13、使徒 17:26-27、イザヤ書 55:6
36〜41節 心が閉ざされた?
人々の心が頑ななのを見て、イエスは彼らから身を隠されたと書かれていますが、おそらく44〜50節の部分を語り終えられた後に去って行かれたと考えられます。
ところで、とても気になるのは、38節と40節のイザヤ書の言葉です。この文脈だと、ユダヤ人がイエスを信じなかったのは、神が彼らの心を閉じていたからと言う響きになります。流石にこれは腑に落ちないものではないでしょうか?
この事柄に当たってまず前提に置く事は、人間の心には聖霊なる神からの働きかけが先になければその人が神を知る事は不可能だと言う事です*。しかしその一方で人間からの正しい応答も要求されます。今回の記事でもわかるように、人は聖霊に示された真実を目の当たりにしてもそれを拒む事ができてしまいます。そうなると上記の通り聖霊の働きはその人から一歩離れ、それだけまた神に立ち返る事が難しくなります。そして聖霊が離れてしまう事で人の心は更に閉ざされると言う悪循環に陥ってしまいます。こんな風に、神のことばは柔らかい心の中では芽生え、育ち、実を結びます**、しかし人が硬い心を維持するならばその心は更に硬くされます***。同じ一つの太陽が氷を溶かせばコンクリートは固めると言う対照的な現象が一つの例えになるのではないでしょうか?
*Ⅰコリント 12:3、マタイ16:15〜17
** マタイ 3:3-8 と 18-23
*** マタイ 3:3-8と18-23、Ⅱサムエル 22:27、詩篇 18:26
この章の最後の部分は、まるでヨハネが最後のイエスの群衆への言葉を思い出して書き足したかのように響く段落があります。それは「またイエスは大声で言われた」と言う44節から始まります。イエスが公共の場で話す最後に、これまで語ってこられたご自身に関しての重要な事柄のいくつかをもう一度だけ彼らに投げかけられたかのようです。それらは以下のようにまとまります。
44〜45節
- 要点:イエスを信じる者は、実は父なる神を信じる者である。(ヨハネ:10:30、10:38等)
46節
- 要点:イエスは世の光である。(ヨハネ1:4〜5、8:12、12:35〜36)
47節
- 要点:人としての生涯でイエスは裁きを行わない。(3:17、8:15)
(ヨハネ伝の学び 8章12〜30 の投稿を参照)
48節
- 要点A: イエスの語ったことばには裁きを下す権力がある。当時、人間として歩まれ、救いの道を開く使命を与えられていても裁く使命は与えられていなかったと理解できます。しかし復活と登天の後、やがて御子イエスはこの世裁くために戻って来られます*。私たちはそれを待つ時代に生きているのです。
*Ⅱテモテ4:1、黙示録20:11〜15等
- 要点B: イエスご自身がご自身の語られたことばであられる*。
*ヨハネ1:1
49〜50節
- 要点A:イエスキリストの最大の父からの使命は、人類に永遠の命への道を開く事である*。
*ヨハネ3:16、12:27、ピリピ2:6〜8、他多数
- 要点B:イエスは父なる神に言われた事だけを語っておられた*。
*ヨハネ3:11、5:30、8:26
適用:
「光の子」すなわちクリスチャンとして生まれ変わる時も、またクリスチャンとして神にもう一歩近づく時も、人はイエスのことばに対しての正しい応答が求められています。