「最後の晩餐」として知られている場面がこの13章から17章まで続きます。この部分は、弟子たちを始め全てのご自身に属する人々への親密な愛と彼らの為の祈りが記録されています。数日前にエルサレム城入りされた後、イエスは最後に群衆に呼びかけられ、心の頑なな人々を後に残して「身を隠された」ところまでが12章で語られていますが、13章の始め時点でイエス一行がどこにいるのかはマタイ 26:17-19を読むと話を繋げる事ができます。この世を間も無く去ろうとしておられたイエスは弟子たちに「残るところなく」示しておきたかった彼らへの愛をこの夜に親密に語られます。13章では「仕えあう」と言う観念を、イエスが彼らの足を洗う事で教えられる事、またユダの「解放」とペテロに降る衝撃的な予告までが記されていますが、この回はその洗足の箇所に焦点を置きます。時は過越の祭りの前夜とされ、イエスと弟子たちはとある大きな借り部屋の中でその祭りの晩餐(この食事は祭りの前日の日没に設けられます)をとっているところからで、悪魔が既にユダの考えを唆していたとも書かれているのですが、この件については次回の投稿で詳しく学びます。
万物を治める権威 1 – 4 節
イエスのこの世に来られた最大の使命に到達しようとしていたこの時、父なる神から万物を治める権威がイエスに与えられたようです。神でありながら人間としての人生を歩み、人からの拒絶と死を体験され、人類の救いの道を開かれた事でその使命が成し遂げられようとしていた時点で父なる神から全てが御子イエスに委ねられたのです。成し遂げられてからではなく、その前の時点であった事が興味深いものではないでしょうか? イエスが十字架で死なれてしまうだけであるなら、この受け取ったばかりの権威は虚しく終わりますが、イエスはよみがえられ、父なる神によって正式に万物の上に即位された事を聖書は語っています(*)。その時が間近である事を噛み締めてイエスは一つの行動に出られます。
*ピリピ 2:5-11、エペソ1:20〜23
洗足 5 – 8 節
万物を治める権威を持たれた御子イエスは食事の席から途中で立ち上がり。。。「権力を持って弟子たちに色々と指示をしだした」ではありません。なんと弟子たち一人ずつの足を洗いだされたのでした。
当時の社会では動物にまたがったり車を引かせたりする事以外の陸上での移動方法は徒歩しかなかった事は言うまでもありません。履き物と言うとサンダル系のものが主流だったので、人々の足は当然汚れます。毎回家に入ると足を洗う事が常識で、来客があれば、彼らの足を洗う事はその家のしもべ達や奴隷達の役割だったのです。この以前から弟子達の間ではお互いの中で権力を巡っての言い争いが起きていたらしいのですが、この時点でもその問題は解決されていなかったようです。この日その借り部屋には足を洗うしもべは配置されていなかったようですが、どの弟子もそのしもべの役を進んで取り持つ事を拒み、皆が「仕方がないからこのままで」と言う感じだったのでしょうか? しかし、食事の途中からイエスが立ち上がって、その奴隷たちの仕事とされる洗足を自らが実行されたのでした。万物を治める権威を持った神の御子が、です。
弟子たちにはかなりショックな事だったのではないでしょうか? 本来なら自分たちが師匠の足を洗うべきであったのにと恐縮した事でしょう。何人かが足を洗ってもらう間にペテロは頭の中で考える時間があったのかも知れません。イエスが彼の足を洗おうとされたとき、彼はそれを拒否します。師匠が自分の足を洗うなんてとんでもないと。特にペテロは12弟子を代表してイエスと接する事が多かったので、それだけこの展開にも責任を感じたのかも知れません。しかし、それに対するイエスのことばはペテロの心を刺すようなものだったのです。
「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません。」(8節)
神であられる御子イエスが人間の新生児としてこの世に来られ、馬小屋で寝かされ、 「宣教」と言う宿もない生活をされ(*)、不当に裁かれ、ムチ打たれ十字架につけられる… そんな風に神が私たちの最も低いレベルまで降りてきてくださらなければ魂の救いも成長も不可能だったのです。この洗足とイエスのことばはその事を表しているようです。救いを受ける時、人は神のこの様な歩み寄りを素直に受け入れる事が重要です。そして、ペテロの様に、救われている立場で合っても魂の成長に必要な神からの歩み寄りを拒んでしまう事もしばしばあります。自分の心の中で清められる事が必要な事柄が有っても、「自分でそれを直してから神の前に出る」とか、「イエス様に心を見せるのは恥ずかしい」とか考え、悔い改める事を怠ったり、自分の弱さを認められなかったりしていると主イエスとの関係は深まりません。イエスが屈んで足を洗ってくださる様に、心に介入される事を拒まずに従う事が私たちに要求されているのです。
*マタイ 8:20, ルカ 9:58
水浴? 9 – 11 節
ペテロはイエスのことばを聞いて今度は180度逆方向に反応し、足だけではなく両手も頭も洗って欲しいという程イエスとの関わりを最高のレベルで求めたのでした。この率直な素直さはペテロという人物の味をよく出しているのではないでしょうか? 部屋の中が和やかな笑いで満ちた光景が想像できます。
イエスの答えは、水浴(当時は水風呂が主だったのでしょうか?)した者は足しか洗わなくていいのだという筋のものでした。ペテロがこの時点で入浴を済ませていたと考えるのではなく、ここでもイエスは例えとして水浴と洗足を用いられたのだと理解されています。「水浴」が神に立ち返ってイエスに属する者(クリスチャン)になる事を表すのであれば、洗足はクリスチャンとして生きる中で日々犯してしまう罪や過ちを悔い改めてイエスの元に告白し、心を洗われる事を表していると解釈されています。
イエスは「入浴を済ませた」弟子たちが、一人(ユダ)を除いて、皆が神から見て清いのだと言われたのです。6章70節の時点でもイエスは同じような事を言われていたので、弟子達の間ではそれが誰なのかが分からなくても、イエスご自身は当然の事、初めからユダの裏切りを知っておられたのですね。それでもイエスは分け隔てをする事なく、このユダの足をも洗われたのでした。これは罪人がどんなに神を拒んでも、神はその人物を最後まで愛されておられる事を象徴していないでしょうか? 人生が終わる前に神の愛に立ち返る人は本当に幸いです。
洗足からの教訓 12 – 17 節
イエスはその後再び食事の席に着かれ、話し出されます。たった今、ご自身がなさった事を理解したかを弟子たちに問われました。ご自身が彼らから「先生」だの「主」だのと呼ばれるに値するとはっきりと宣言しておられます。それは神がご自身を神と名乗る、当然の事だったのです。そしてその立場の御子イエスが彼らに仕える行動をとられたのであれば、彼らは尚のことそれを見習い、同じようにすべきであり、そうする者は祝福を受けるのだと言われました。
この洗足に関してのイエスのことばから、教会によっては実際に「洗足式」という儀式を設けるところもあります。礼拝の中で、出席者がお互いの足を洗うと言う行事です。しかし、一般的にはもっと比喩的に捕らえて、お互いに仕え合ったり、地域に出て行って人々に仕えたりする事で、この命令に応える事を意味すると理解されています。いづれにしてもイエスに従う心からの解釈である事には変わりません。
適用:
イエスが私たちの心を清めようとしてくださる時、私たちは素直に悔い改める事と心を明け渡す事ができているでしょうか?
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