時は「最後の晩餐」の夜となっていて、イエスは弟子達一人一人の足を洗い終えられた直後に、師匠であるご自身がへりくだって人に仕える事の模範を示したのだから、彼らもそれを見習って「足を洗い合う」ように命じられ、そうする時に彼らは祝福を受けるのだと言われたところで前回の学びが閉じられました。今回はイエスがそのまま続けて話されるところから始まります。

群れに潜む悪  18-26節

イエスは話を一転させて「今の命令はあなた方全ての者に向けたのではないのだよ。」と言う内容の事を言われます。弟子達の中にイエスが命じた事とそれに伴う神からの祝福が値しない存在の者がいるのだと言う事を仄めかされました。その事をイエスはある預言の箇所(*)を通して語られます。

*詩篇41:9

「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとをあげた」と読まれた預言は詩篇41:9から引用されたものです。パン、つまり食事を共にする事は当時のこの地方の文化に限らず、親しいものたちの集まりを象徴していますね。そのように親しかった友人が相手に向かって「かかとをあげた」と言うのです。この言い回しはヘブル語では凶暴な暴力を表しているそうです。ユダと言う人物がイエスと弟子たちの中で3年に渡って寝食を共にし、何を考えて過ごしてきていたのかを知っていたのはイエスご自身だけだったのでした。

まだ何も起きていなかったこの時に、前もって裏切り者の存在を予告されたのは、後に彼らが振り返った時にこの預言が成就した事がわかるように、そしてイエスがこの詩篇の箇所で裏切りを受ける立場にあるキリストであると分かる為であると言われています。弟子たちはこの時点でイエスをキリストであると認めていましたが、彼らが知らなかった事は、間もなく彼らはイエスによって世界に送り出されると言う事でした。弟子たちが方々に散らされて教会時代の土台となって行く事を視野に、彼らを受け入れる人々、つまり彼らの言葉を受け入れる人々はイエスご自身を受け入れる事となり、またそれは父なる神を受け入れているのだと語られています。それ故、彼らが今この裏切りの預言を聞く事とそれが成就するのをこれから見る事は、彼らの信仰を強めるしるしの一つになった事でしょう。

「あなた方のうちの一人が私を裏切ります。」

イエスはご自身の霊の激動を感じられ、そう続けられました。弟子たちが大きな衝撃を受けた事は言うまでもありません。当惑した彼らはお互いに顔を見合わせ、ペテロはヨハネに合図します。合図を受けて、イエスのそばに居たヨハネがイエスにそれが誰なのかを率直に尋ねました。イエスは、たった今持ち出された詩篇の預言と重ねてパンを浸してユダに与え、ヨハネに示されました。

ユダと悪魔  27-29節

この時ユダはどんな顔をしていたでしょうか?  以前にも(*)この夜も、裏切り者が出ると言う事をイエスが予告された時、自分の事だと認識していたでしょうか? そもそも彼はどんな心でイエスの弟子になったのでしょう? 主流になっている解釈としては、ユダがイエスに大きな政治的な期待を持って弟子の招きを受けたのではないかと言うものです。ローマ帝国からの抑圧をひっくり返し、イスラエルを自由な国にしてくださるのが「キリスト」だと多くの人々が思い込んでいて、ユダもその一人だったのではないか? ユダは間違った期待をイエスに掛けていて、それが叶いそうにない方向にイエスの言動が進むにつれ、自身の立場や身の危険を感じ出したのではないか? イエスの命が狙われだすと逮捕されるのも時間の問題か、その時自分も巻き添いにされてしまう。そうなる前に逃げ道を確保しようと自らが指導者たちの側に寝返る事を企むようになったのではないか? と言う形の解釈です。

*ヨハネ6:70

2節前回の投稿)では、悪魔がユダの心に「イエスを売ろうとする思いを入れていた」と記されています。確かに悪魔は私たちの思考に働きかけることができ、世の初めから人類の思考を唆す事に力を注いできています(*)。ところが27節では、ユダがイエスからパン切れを受け取った時、サタンがユダに「入った」と記されています。「入れた」に対して次のステップでは「入った」と言うものです。すなわち、ユダはこの時サタンに乗り移られたという状態になってしまったのです。恐ろしい話です。

* ヨハネ8:42-44、創世記3:1-6、Ⅱテモテ2:26、Ⅰヨハネの手紙5:19等

イエスがユダにパン切れを手渡した時、ユダはその意味を理解していたでしょうか? イエスとヨハネの会話が聞こえていなかった可能性も勿論あります。しかし、もし聞こえていて、それでもパン切れを受け取ったとしたならば、それはユダがイエスに対して開き直り、真向から裏切りの意図を示したとも想像できます。過去3年間イエスと共に歩み、イエスのことばと奇跡の業と神性を目の当たりにしてきた上で「そうです。わたしはあなたを裏切ります」と言わんばかりにパンを受け取る形で、大胆で恐ろしいメッセージをイエスに向けたと言う事であれば、彼がこの時サタンに対して心を開いてしまったと結論づけても辻褄が合うのではないでしょうか? イエスが「あなたがしようとしている事を今すぐしなさい。」と言った相手はユダであったのか、それともユダの中にいたサタンだったのか、境が分かり辛いものです。 

追放?  30節

ユダはパン切れを受けてすぐに出て行きました。この直後からイエスは何章にも渡って残った弟子たちと親密な話に入られます。その神聖なる場所にユダがそれ以上いてはならなかったのでしょう。ユダ本人は裏切って立ち去ったつもりだったかも知れませんが、実は12弟子の中から追放されていたと言う方が真実だったのでは?

栄光  31-32節

これからイエスを大きな苦難に追い込むためにサタンがユダを走らせます。その間それを知りながらのイエスのことばは全くそれを思わせないものです。御子イエスと父なる神がお互いに栄光を与え合うというもので、このように十字架と栄光が背中合わせに映し出されるコンセプトです。十字架が扉として例えるならば、その向こうにはよみがえりがあり、贖われる人々がおり、万物に対する権威をお受けになる栄光があります。その栄光がその扉を開ける前に既に与えられていた、と言う不思議なコンセプトで、おそらく人間の頭では理解しきれないかも知れません。(ヘブル12:2)

新しい戒め  33-35節

「子供たちよ」と続けて呼びかけられるイエスのことばには弟子たちへの深い愛情、その上に今もう彼らとの死別がすぐそこに来ている事への悲しみが含まれていた事でしょう。 そのままご自身が後もう僅かな時間しか彼らと共にいない事と、彼らがご自身を捜しても見つけられないところに行ってしまわれる事を話されました。「裏切る者がでる」と言う知らせから立て続けだったので弟子たちの心は痛んだ事でしょう。イエスはご自身が肉体を持って彼らと過ごす時間が終わろうとしていたこの時に強く願っておられた事は、愛する弟子たちが互いに愛し合う事でした。そうする時、それを見る全ての人々が彼らがイエスの弟子である事を知るのだと言われます。現代の教会にも同じことが言えますね。クリスチャンたちも性格や物事への方針が違っても、主イエスを愛する心が共通してあればお互いに愛する事も聖霊が助けてくださるのです。

何処へ?  36節

「主よ。どこにおいでになるのですか?」ペテロのこの言葉には、どうか物理的な場所が答えであって欲しいとの願いがあったのではないでしょうか?

「わたしが行く所に、あなたは今はついて来る事ができません。しかし、後にはついて来ます。」

やり遂げようとしておられた最大の使命である十字架は、神の御子であられるイエスご自身が一人で通らなければいけないものだったのです。しかし、それによって救いの道が開かれ、ペテロも他の弟子たちも、また神に属するどの時代の人々も人生の終わりに御子イエスのおられる天国に行く事ができるのです。

ペテロの焦り  37-38節

しかしペテロはこの時、それどころではありませんでした。焦っています。主は自分たちを置いてどこへ行かれるのか? 「死ぬ」なんて言って欲しくない。自分が主を守るんだ。そんな気持ちが高まっていたでしょう。なので、自分は命を捨ててでもついていくのだ。本気でそう思っていた筈です。ユダとは正反対なのです。

そんな情熱を持ってイエスに訴えた時、彼に降りかかったイエスな衝撃的な予告でこの13章が閉じられます。その同じ夜にペテロは三度に渡ってイエスとの関係を否定するのだと言うもので、その後で鶏が鳴く事がそのしるしであると言う内容なのです。

適用:

私たちはこの夜のイエスの心の痛みや孤独さに心に留めて、イエスがそれでも苦しみを通って私たちに救いを用意してくださった事に改めて感謝しながらイエスに付き従って生きる事ができます。