自分たちが付いていけない所へ主イエスが去って行ってしまう。その不安をあおるイエスのことば、そしてペテロへの衝撃的なイエスからの予告 – 同じその夜に彼がイエスを三度に渡って否むこと(前回参照)– が雷のようにペテロを始め弟子達にショックウェーブを送りました。14章はその直後の場面から始まります。

迎えに来られるイエス 1-3節

これらの情報を言い渡されて、弟子たちの心が騒がない訳はありません。「これから自分たちはどうなる? これまで固く信じて従ってきた神は自分たちを見放すのか?」そんな不安も彼らの心を騒がせた事でしょう。この部屋にしばらくの沈黙があった事も想像できます。当然それを理解しておられ、イエスは彼らに続けて語られます。このような状況であっても心を騒がさずに父なる神、そしてその父と同一であるご自身を信`じるように、そしていつかご自身が彼らを迎えにくるのだと言われます。弟子達に限らず、世界中のイエスに属する人々の為、天国で場所を用意してくださるのです。その場所は俗に想像される雲の上のフワフワの「天国」ではなく、しっかりとした場所である事も聖書は語ります。(*) 

*ルカ23:43, 黙示21, 22:1-5

一人のクリスチャンが肉体の死を通してこの世を去る時、天使と共に主イエスご自身が迎えに来てくださると言う事でしょう。イエスキリストにはこの上にもう一つの迎え方があります。今でも教会が待ち望んでいる「携挙 〜(けいきょ)」( 英:”Rapture”)と呼ばれているもので、イエスがこの世界中のご自身の民を一瞬のうちに天に引き揚げられると言う、今だかって起きた事のない事が未来に約束されています。このような素晴らしい未来が約束されているのであれば、私たちはこの世にいる間に経験する恐れや衝撃、そして苦難などの向こうにある後の世界の希望に心を置く事ができます。そして、今この世に置かれている事も私たちがその希望に備えられる為なのです。

「道」を知っている弟子たち 4-11節

現代、聖書が完成してその全体図が見える私たちがこれを理解する事は難しくありません。しかしこの時点の弟子たちはおそらく混乱の中にいた事でしょう。その上にイエスは、弟子たちがご自身の行く道を知っていると言われるのです。どう言う事でしょうか? 今は付いて行けないのにそこへ行く道を彼らは知っているとは? これにはトマスが「いや、知らないでしょう。」と言わんばかりに論じ返します。それに対するイエスのことばはやや頻繁に知られている聖句となっています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ誰一人父のみもとに来る事はありません。」(6節)

「わたしは道を知っている」ではありません。「わたしが道であり、」です。イエスご自身を知る事、愛する事、従う事が父なる神に来る唯一の道なのだと言われているのです。すなわちこのことばは、イエスキリストに来る事によって、神と共に歩む途につき、真理を知り、永遠の命を得るのだと語っている事になります。そして、イエスはご自身を通してでなければ父なる神に来る事はできない、つまり他に救いはないのだと語られます。知らない間に弟子たちはこのハードルをクリアしていたのだと励ましておられるようです。

排他的?

聖書は何度もこのメッセージを語っています(*)。「排他的」な聖句として有名で、一般社会からの批判も後を断ちません。しかし、例えば自分の部屋に人を入れない姿勢であっても排他的であり、自分の車を自分のみが乗り回す事も排他的です。住居人以外が勝手に家に入るのは違法侵入であり、排他的です。親権を持つ親こそが我が子に関する物事を決めますが、それもまた排他的です。このように、必ずしも「排他的イコール間違っている事」にはなりません。肝心な事は、なぜこの聖句が排他的なのかを吟味する事、学ぶ事です。

*ヨハネ 3:16, 8:24, 使徒 4:12, ローマ 3:23, ピリピ 2:8-11, Iテモテ 2:5, 黙示録 1:17-18, 22:12-13, etc. 

イエスのここでのことばの根拠は他でもありません。神と人との間を隔てる「人間の罪」と言う問題が取り去られなければ、人が聖なる神に辿り付く事はできません。御子イエスの十字架での犠牲のみがその問題に対する解決なのです(*)。7-11節でも強調されている通り彼が父なる神と同一であられる御子イエスが、時を超えて全時代の全ての人の為にご自身を捧げられたのです。そのイエスを素通りして父なる神に来ようとする事は神への最大な侮辱になってしまうので、排他的になる他はありません。

* Ⅱコリント 5:21, エペソ1:7, 2:13, etc. 

とびら8「応答の扉」参照

イエスへの信仰を持つ事は雲を掴む話ではありません。弟子たちに、神と同一であられると言っているその言葉を信じる事ができないのであれば、せめてイエスのわざ、つまり弟子たちが過去3年間見て来たイエスのわざを思い出せと言われます。個人のクリスチャンとしても、聖書の中でのイエスのわざ、また自身の人生で観て来たイエスのわざなどを振り返る時、イエスキリストの神性を目の当たりにさせられます。

拡大するイエスのわざ 12-16節

そう話されるとイエスは続けて、これらのイエスのわざを今度はイエスを信じる者たちが行うようになるのだと語られました。ただ、12節の「またそれよりもさらに大きなわざをおこなう」とはどう言う意味でしょうか? しかもそれはイエスが父のみもとに行くからだと言われます。ベツレヘムでの新生児として来られたイエスは、神の御子でありながら、弱さや限界の中に始めからご自身を閉じ込められた事がわかります(*)。 一人の人間としてこの世を歩まれたイエスの行動範囲には、基本的には(例外も確かにありましたが(**))場所や時間にまつわる限度の元でした。その上イエスの教えも始まってまだ3年であり、イエスに出会って彼の影響を受けて来た人口は「全世界」と言うわけにはいかず、限られています。イエスが去られ、その代わりに聖霊が総教会に降られる事はとても重要だったのです。始めはイスラエル周辺のちっぽけな地域から始まった、救いに導くイエスのことばや奇跡を伴うイエスのわざが、現代では聖霊の力で世界中のクリスチャンたちや総教会の働きの中で魂の救い、神からの啓示や奇跡などが絶えず起こり、福音がしっかりと広がっています。この状態が正に主イエスが言われる「さらに大きなわざをおこなう」と言う事が、この時代になって振り返ると分かります。

*ピリピ 2:5-8, マタイ 2:13-14, ルカ 2:7

**マタイ 8:5-13, ヨハネ 4:46-53

拡大の条件

各クリスチャンのレベルでも、総教会のレベルでも、「イエスの御名によって」祈る事と「イエスを愛して戒めを守る」事によってそれぞれの働きが成し遂げられるとイエスは続けて語っておられるようです。「イエスの御名」とは名前だけを指すのではなく、イエスご自身の人格・位格を通すと言うものです。イエスと心を共にする祈り、そしてイエスへの愛と服従は神の手を動かすものだと教えておられます。そして、忘れてはならない事は、これらの事は助け主となられる聖霊の働きがあってのみ可能だと言う事です。

この世は聖霊を知らない

一般の人間界は聖霊の動きや働きを察する事はできません。なので、世の中では聖霊の働きがニュースになる事もありませんね。この世は聖霊を直接知る事ができないので、その概念を拒絶するのだとイエスは語られます。それとは対照的に、この世の中に存在する教会や個人のクリスチャンには、聖霊がその人の生涯を通して、そしていつまでもに共にいてくださるのだと言っておられます。心を騒がせていた弟子たちに、イエスは聖霊と言う助け主の存在を語り、彼らを慰められたのでした。

適用:

私たちも絶望に直面しているように思える時、聖霊の助けを求めて慰めと希望を与えてもらえるのです。

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「ヨハネ伝の学び 14章1-17節」への2件のフィードバック

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