最後の晩餐の中でイエスは弟子たちにご自身がこれから去って行かれる事、裏切り者がでる事を話し、困惑する弟子達にこれから降って来られる聖霊の話をされました。「聖霊が必ずあなた方の助け主として来られる。」と言う話をされているところで前回の学びが閉じました。今回はその続きになります。

聖霊の臨在と素晴らしい未来 17-19節

聖霊の臨在はイエスを主とする者たちの中で働いていて、その人たちの心を神に向けるよう、また様々な状況を乗り越える知恵や言葉をくださるように働いてくださいます。聖霊の力はその人生や環境の中に、また公同の教会(世界中のイエスを神であり救い主であるとする教会をまとめてこう呼びます。)のレベルの中でも働いておられます。「そう言う事だから、わたしはあなた方を捨てて孤児にする訳ではない。そして必ずあなた方を迎えに戻ってくるのだよ。」とイエスは再び念を押しておられます。イエスがこの後によみがえって生きられるので、私たちも生きる、すなわち永遠の命を得る事ができると言っておられます。

クリスチャンとしての人生の中で、この時の弟子たちのように「孤児にされてしまった」と思えてしまう状況に置かれる事も度々あるでしょう。そんな時に私たちはそれぞれ自分自身のうちにおられる「助け主」であられる聖霊の臨在と、主イエスが迎えに来てくだり永遠の命を与えてくださると言う約束に希望を持つ事は重要ですね。

その日には分かる 20-21章

「その日には」。。。イエスが迎えにくる日(前回参照)、イエスに属する者たちは父なる神、御子イエス、そして聖霊との深い交わりの中に包まれるのが想像できるでしょうか? 神は人間一人一人を確かに限りなく愛しておられます。信仰を持たい人でも神はその人を愛しておられ、その人生に働きかけ、その人がご自身の元に来られるのを待っておられます。その一方で神が、神を愛して従順な人生を歩む努力をする人を喜んで、その人に親しく交わってくださり、ご自身を「現してくださる」愛があります。それでも確かにこの世を歩んでいる間は、その神の愛が自身の中で「現実化」しない傾向に偏ってしまい勝ちですが、「その日」には全てを現実として受け入れる事ができます*。神が自分を喜んでくださる愛に包まれる永遠の余生は、この世に生きる人間の頭には入りきらないコンセプトなので、「その日には。。。あなた方に分かります」とイエスが言っておられるのです。イエスを愛する人たちは、この約束を常に心に留め、希望を持って生きる事ができるのです。

*Ⅰコリント 13:12

なぜこの世にご自身を現さないのか 22-24節

イエスには「ユダ」と言う名前の弟子がもう一人居ました。このユダがイエスの話に疑問を抱きます。なぜ、イエス様は自分たちにだけご自身を現して、この世の中にはそうしないのかと言う質問をします。私たちにも覚えがないでしょうか? 神様が本当にいるのなら、なぜ人間の前に現れないのか? なぜ全ての事を良い方向へ持って行かないのか? という様な疑問です。しかし、今ちょうどイエスが話しておられた事がこれに対する答えだったではないでしょうか? イエスがこのずっと以前に「心のきよい者は神を見る」*と語られた事があります。 自分の人生を定められた位置から純粋に神の存在を求める人に神が一歩一歩その人の人生を導かれ、ご自身を現してくださる事を聖書は約束しています。**

*マタイ 5:8
**エレミヤ 29:13、使徒 17:24-28

しかし、「きよい心」とは言えない形で神を求める事も、人間は行って来ています。自分の中に描く「理想の神」、悔い改めなくても生き方を変えなくても容認してくださる「神」を求める場合、それは真の神に出会う道ではなく、「宗教」と言うものに心を捧げたり、または別の人間を崇拝したり、自分自身を間違える事が不可能でいつも正しい「神」のように勘違いすると言う方向に走ると言う状態に落ちてしまいます。多くの人がこのように真理に辿り着かない道を歩んでしまっている事を、イエスはこの以前にも語っておられます。***  イエスが真の神を求めないこの世の中にではなく、ご自身を愛して従おうとする者にご自身を現される事は妥当なのではないでしょうか。

聖霊が思い出させてくださる 25-29節

因みに一般的に私たちは、この福音書をはじめ、聖書の66冊が書かれた経過をどの様に頭の中で想像するでしょうか? イエスの言動を著者ヨハネが絶え間なくメモをとる姿などを描いてしまうのではないでしょうか? しかしそう言う訳ではないようです。25節によると、イエスが弟子たちに話されたことを聖霊が後々思い出させてくださるのだとイエスは言っておられます。ヨハネ伝に限らず、聖書の全てが書かれるに当たって、物事が起こった後、聖霊が著者に働き、書く内容を思い出させたり、啓示してくださったりされた事が想像できます*。個人のレベルでも、例え少しづつであっても聖書を常に読む中で、また教会でのメッセージを聞く中でその人が必要とする神からのことばを、聖霊はその時々に思い出させてくださいます。

*Ⅱテモテ 3:16

この世の「平安」vs  イエスの平安 27節

イエスキリストは使徒たちをはじめ、私たちにこの世からは得る事ができない平安、神からのみの平安をも与えてくださいます。では、それらがどう違ってくるのかを考えてみます。

この世が映し出す「平安」とは条件が伴います。国の平和な情勢、良好な経済、自身と家族の健康や安全から始まり、落ち着いた暮らしや良好な人間関係などのコンセプトがあります。しかしこれらのものは一時的で。掴み取ったと思えばすぐに手からすり抜けてしまうのではないでしょうか?

それらとは遥かにかけ離れているのが、御子イエスがくださる平安です。それは一言で言うなら如何なる状況にあっても見出すことのできる平安です。ただ、「心の持ち方」とか「ポジティブ思考」とかと言うものではない事も覚えておくべきです。この平安は、それに関して読む・聞くだけでは学ぶことはできません。生きた神がくださる平安である故に個人のイエスキリストとの関係を要します。この世に打ち勝たれたイエスが*個人の中に宿っておられる聖霊を通してくださるものです。神の愛と約束に心を置く時、この世の中の状況によらず、私たちはイエスキリストがくださる平安を持つ事ができるのです。

*ヨハネ 16:33、第一ヨハネ 5:4、ローマ 8:37-39

教えの締め括り段階? 30節

これらを話されて次にくる内容は、なんだか寂しい響きがあります。「わたしはもう、あなた方に多くは話すまい。」イエスは「話す事は全て君たちに話した」と言うニュアンスで、正にこの時、三年間の教えを締めくくる段階に入られたかの様です。 

「この世を支配する者」 30-31節

この時イエスは、十字架での苦難と死にイエスを引き渡そうと、サタン(悪魔)が動いている事を知っておられました。おそらく、裏切り者のユダの動きをご自身の霊のうちに把握していた事でしょう。イエスはユダに乗り移った*サタンの事を「この世を支配する者」と呼ばれました。サタンは確かにこの世の不信仰な社会を「支配」しているのだと言う事はエペソ書の中にも読む事ができます*。ただ、サタンはイエスに危害を加える目的でやってくる事に、本当のところご自身に対して何をする事もできないのだと言われます。イエスがこれからの受難を通られるのは、イエスご自身の父に従う意思によってであり、悪魔に上手を取られるからではないのだという事です**。数日後にイエスが死からよみがえられる時は悪魔への勝利の宣言になりますが、それはまだ数章先の学びとなります。

*エペソ 2:2
**マタイ 26:53

「さあ、ここから行くのです。」と言うイエスのことばで14章が閉じられます。借りていた部屋を後にイエス一行は「ゲッセマネ」と言う名の園へと出向くのでした。