弟子たちとイエスで食卓を囲んでいた借り部屋を後に、一行はゲッセマネと言う名の園に向かっています。15章から17章まではこの道中と思われる所でイエスが語られたり祈られたりした事柄が記されています。
15章の1-6節の中でイエスは弟子たちに、ご自身が去られた後も彼らがご自身につながっている事の大切さを教えだされます。それはご自身をぶどうの木に、弟子たちをその枝とした描写になった例えです。1節と5節で言われた「わたしはぶどうの木です」のことばにある「わたしは〜です。」の節の原語では「エゴーエイミ」をまたしても発しられています。
ぶどうの木の例え
この例えは、ぶどうの枝はその木の幹から離れてしまうと実を結ぶ事ができないのと同様に、弟子たちをはじめイエスに属する一人ひとりもイエスに留まっていないと「実」を結ぶ事ができないと言う事、そして実を結ぶ枝は刈り込まれてもっと多くの実を結ぶようにされると言う筋の話です。しかし、描写はそこでは止まらず、実を結ばない枝はかき集められて炉に投げ込まれると言うところまで描き出されます。
この箇所を読むと初めはどんな人でも心が騒ぐのではないでしょうか?「実って何?」「どうやってイエスに留まるの?」「実を結ばないとどうなるの?」「刈り込まれるってどう言う事?」などの疑問は避けて通れない箇所だと言えます。なので、この投稿はこの話に集中します。
実って何?
実を結ぶと言う概念は聖書の中では他でも出てきます*。そもそも、実と言うものは、その植物を育てた結果として存在するものです。つまり、イエスに留まった結果として、(旧約の時代なら神に従った結果として)見受ける事ができるものが「実」と言うものに例えられています。ガラテヤ書にはそれらがその人のうちにおられる聖霊(御霊)の働きの結果、その人の内側の変化から始まるものとして挙げられています。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」 ガラテヤ 5:22-23
この聖句の中にある性質が心に生まれると、自然と何らかの形でその人の言動や人生に映し出される筈なのです。それが聖書をもっと深く学ぶ意欲であったり、価値観の変化、神への信頼、暗の世界からの開放、人々にイエスを伝える意欲、祈りに励む事だったりします。又は、これらが周囲の人々を信仰に導くに至ったり、周りの状況に神の御心を実現させる事も後を断ちません。こう言った変化をまとめて「実」と呼ぶ事ができます。
*エゼキエル書 19:10、ホセア書 10:1、ルカ 13:9、マタイ 13:1-9
どうやってイエスに留まるの?
どうやってイエスに留まるかはそれほど難しい事ではありません。それは他でもなく、聖書の教え(読む事、学ぶ事)と祈りの中で、イエスとの交わりを保つ努力をする事です。人間同士の関係でもコミニケーションを保たなければ疎遠になりますね。その関係が深まるにはお互いの理解や尊重などが要されます。相手を更に知る事と自身を知ってもらうことは欠かせません。主イエスとクリスチャン個人の交わりもこれに良く似ていますが、更に重要な要素が二つほど加えられます。それは神からの語り(聖霊の働き)と個人がそれに従う事です。つまりとても当たり前な事ですが、一歩一歩従う事によって、神との交わりが深められ、聖霊の実がその人の内に実るのです。
実を結ばないどうなる?
この箇所を読んで、抱いてしまう疑問は大抵、「実を結ばなければどうなる?」、又は「イエスに留まらなければどうなる?」と言うものではないでしょうか? ここの箇所では「取り除かれる」だったり、「投げ捨てられて枯れ、火に投げ捨てられる」など、怖くなる話が出てきます。と言う事は? クリスチャンとして生きていても「実を結ばなければせっかくの魂の救いを失ってしまうのか? それならどれだけ実を結べば救いを保持できるのか? 自分はもはやアウトか? とこんな風に深い渦に巻き込まれる様な疑問が出てきますね。こんな場合、救いの確実性を語る聖書全体のメッセージと神の御性質をもう一度学ぶ必要があります。イエスの十字架の絶対性と、私たちへの神の愛こそが「救い」と言うものを維持して下さるのです。*
*ヨハネ 3:16、5:24、10:29、ローマ書 8:38-39、エペソ 4:30、ユダ 1:24等
神の前に価値のある人生
聖書は岩の上に建てられた家を例えにして、人が自身の人生を築き上げていく時、イエスキリストを土台とするべきであり、その家(人生)をどの様な素材を使って建てるかはその人次第であると語ります。この場合は当然、クリスチャンとしての人生を指していると理解します。いつしか裁きの時が来るとその「家」は裁きの火を通されますが*、神の前に価値ある素材で築いた「家」、つまり実を結んだ人生の価値は燃えずに残り、神の前に喜ばれる人生を歩んだ事が明かされます。しかし、神の愛と恵に安心しきって、御心を追わずに適当に生きた場合の「家」は価値のない素材で築かれます。その場合、その人の人生の価値は裁きの火で焼き尽くされますが、その人自身の魂は救われると言う事が書かれています。イエスが語った、実を結ばない枝が炉に投げ込まれる例えは、この裁きの火の事を語っていると言う説もありますが、それは辻褄が合うものではないではないでしょうか。
*マタイ 7:24-27、Ⅰコリント 3:10-15
**Ⅱコリント 5:10、ローマ 14:12
クリスチャンとして真に生まれ変わった人物は救いを失う事はありません。これはとても感謝すべき事です。そうは言っても、実を結ばずに生きる事は非常に勿体ない、悲劇的な人生です。自身が神の意図した生き方ができず、神との間が疎遠になってしまう人生はなんと虚しい事でしょう。その上いつの日か、主イエスの御前に出る日、自分の生きた人生が主の前に殆ど価値がないとみなされるものであれば、主イエスから認めていただく事柄も、それに伴う報い*もほんの僅かになってしまうからです。その時にどれほど悔いてもやり直す事はできません。
*マタイ 5:12、16:27、ローマ 2:6、黙示禄 22:12等
それとは逆に、もし、主イエスから「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言ってもらえるとするならば、どんなに幸せな事でしょう。神を喜ばせる人生は人間の自身の弱さや罪深さと葛藤しながらも神に従う事を願う心と、服従や犠牲を伴う神への愛なのです。この葛藤は聖霊の助けのもと、この地上で生きている間にしか果たす事のできないものなのではないでしょうか? 罪や悪が存在しない天国ではそう言ったレベルの服従と犠牲を払う事はできなくなるからです。
*マタイ 25:27
**エレミヤ 6:19、イザヤ 66:2、詩篇 51:17、ローマ 12:1-2、ピリピ 2:17、ヘブル 13:16、Ⅱコリント 4:18
刈り込まれるとは?
ところで、実を結ぶ枝とされる人物は父なる神の手によって「刈り込まれる」とされていますが(2節)、どう言う事でしょうか? ガーデニングや農業に詳しい人ならピンとくるかも知れません。多くの花や実を結ばせようとする時、余分に生えている部分をその植物から除去しなければなりません。人の人生もこれに似ていて、有ってはならないと神がみなした事柄や性質を取り除かれるためにその人の人生に働かれます。この過程は決して心地の良いものではありません。自身の罪を指摘されたり、受け入れられない試練が起きる時、私たちの人格や思考に借り入れをこなされる「農夫」であられる父なる神を信頼して従い、自信を明け渡すように聖書は呼びかけます。
*ヨハネ 16:33、ローマ書 5:3、Ⅱコリント 4:16-18、ピリピ 4:6-7、
ヤコブ書 1:2-4、1:12、Ⅰペテロ 5:10
適用:
あなたの耳に「この歳になってからじゃもう無理」とか「これだけ失敗や罪を重ねてからじゃもう無理」などと悪魔がささやくかも知れません。人生のどの時点であっても、どんな過去があっても人は神に立ち返り、神に従って生きるのであれば、神はその人の人生に多くの実を結ばせてくださいます。`
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