イエス一行がゲッセマネの園に向かう道中のシーンが続きます。イエスに留まる事とは、そして留まらない事とは等を前回学びましたが、今回は話がそのまま続き、留まって実を結ぶと何が起きるかを語っておられます。そしてこの章では、主イエスの弟子たちに、又、私たち一人一人に向けた愛がどれほど深いものなのかを語られていて、おそらく福音書の中では最も神の情熱的な愛が真っ直ぐに語られている箇所だと言えます。
イエスに留まる=父なる神に栄光 7-8、16節
イエスに留まるのであれば、神の御心を行う事ができ、これらが周囲に見える「実」である事を前回学びました。7節と16節では、イエスに留まり実を結ぶ人は何でも願いをかなえて下さると言われるのです。主イエスに留まると必ず彼の素晴らしさに触れ、その人のイエスに対する愛と信頼が深まるのが自然です。その信頼は神がなさる事は全て最善であると言う信頼です。なので、その祈りはその人の望みとそれに対する神の最善を願うものになります。どんな小さくても、大き過ぎると思える事でも、イエスの御名によって、最善を知っておられる神に委ねる気持ちを持って祈る時に、例え望む形ではなくてもその人の祈りはかなえられるのだと理解できます。そして、人がイエスの弟子となって多くの実を結ぶ事は父なる神に栄光を帰すのです。神に栄光を帰すとは、神の素晴らしさを目の当たりにして、それに正しく応答する事と言えるでしょう。神を愛する事、賛美する事、従う事などは人間の根本的な生き甲斐と、存在している意味をその人の魂に与えるのです (*)。
*マタイ 4:4、16:26、伝道者の書 3:11
神の愛を喜ぶ努力 9-11節
9節でイエスが言われたことばは比べるに値するものはありません。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」
父なる神が御子イエスを愛された愛、その同じ愛で私たちは愛されています。神のこの上ない愛が私たち一人一人に向けられています。想像を絶する概念ではないでしょうか? これは主イエス直々のことばであって、ぶれる事も矛盾する事もありません。神の愛に関して、自身が「自惚れすぎているのでは」とか「思い上がってはいないか」と言う心配をしている自分に気がついたら、それは悪魔からの嘘 (*) だと見切って吹っ切る事が重要です。神の愛は変わる事も無くなる事もありません。神からの果てしない愛で愛されていると言う事実から漏れる人間はこの世に一人も存在しません。神に愛されていると言う自覚を持つ事は、自分を高く評価すると言う事ではなく、神であられる御子イエスの絶対性を持つことば (**) に信頼を置く事であり、そうする時、私たちは素直に神の愛を喜ぶ他はなくなります。私たちはこの事を素直に信じて喜ぶように努力するしか残されていないのです。それが正に「イエスの愛に留まる」と言う事 〜 「イエスが父なる神の愛に留まっている事と同様」だと言う事です。これは重大な事実で、人の心に究極喜びを与える源です。主イエスの愛は、聖霊の助けがあってこそ受け入れて喜ぶ事ができるのです。イエスご自身がこれを強調して、ご自身が今この事を語られたのは、私たちの喜びが満たされる為だと言ってくださっているのですから。
*ヨハネ 8:44、使徒の働き 5:3
**マタイ 13:31、イザヤ 15:10-11、ヘブル 6:18
互いに愛し合う 12-15、17節
イエスは続けて、12節と17節でその愛を受けた者たちは同じ様に互いに愛し合うべきだと言われています。このほんの一、二時間前に晩餐の席でイエスは同じ事を言われ、その愛によって周囲の人間が「イエスの弟子たち」を見分けるものだと話されました(13章35節)。神がご自身の民がお互いに愛し合い、労わり合い、思いやり合いながら暮らす事を切に願っておられる事がこれらの箇所からひしひしと伝わってこないでしょうか? 我が子らが兄弟姉妹、仲良く育ってくれる事を願う親の気持ちはこの神の気持ちを反映していると言えます。クリスチャンとして覚えるべき事は、これはイエスからの「提案」ではなく「戒め」なのだと言う事です。イエスの戒めを守る事で私たちの彼への愛を証明 (*) されます。確かに完璧にこなす事は不可能です。しかし、神の望まれる事は、聖霊に頼りながら努力する心です。イエスはこの様な人物を「友」と呼んでくださるのです。イエスが13節で言われる、「友のために命を捨てる愛」と言う最大の愛を十字架での犠牲によって実証して下さる時が迫っていたのです。
*ヨハネ 14:15、ヤコブ 1:22、2:20、Ⅱテモテ 3:12
主イエスに選ばれる 16節
16節はクリスチャンの中ではとても有名なことばなのではないでしょうか? 私たちは自分でイエスについて学び、信じ、応答したかも知れません。しかしイエスは「本当に選んだのは私の方からだよ。」と言っておられます。胸が一杯になることばではないでしょうか?
イエスを愛する代償 18-21節
イエスはご自身との親密な関係に関してこの様に語られた後、どうしてもその特権に伴ってしまう厳しい事柄に触れられます。それはイエスに従って生きるにあたっては、必ずこの世からの拒絶や迫害が起きると言う事です(*)。 聖書では神はこの世を愛されていると語りますが (**)、それはご自身が創られた人間たちを表します。その反面「この世」とは、神を拒絶する人間の姿勢や一般文化の気質を指します。悪魔と言う存在は神を知らない人々の心を支配しようと絶え間なく努力をし、広範囲にわたって成功しています。定められた時がくるとその支配は破局に追い込まれますが、それまでは悪魔が暴れるのだと聖書は啓示しています (***)。 悪魔がイエスを憎むのであれば、イエスに従って神の御心を行うしもべたちをも当然のように憎むのだとイエスは言っておられます。なので、イエスに従う時「この世」からは馬鹿にされる、ドン引きされる、また多くの場合は深刻な迫害を受ける事もあるのです。クリスチャンとして生きる事は、素晴らしい未来を持った、この世での寄留者だと聖書は語っています。(****)
*ルカ 9:23、10:3
**ヨハネ 3:16、Ⅰヨハネ 4:8、等
***1ヨハネ 3:8、黙示録 12:12
****ヨハネ 18:36、エペソ 2:2、Ⅰペテロ 2:11
真の悲劇 22-25節
焦点は、今度は「この世」に注がれます。イエスはこの時、ユダヤ指導者たちの事を意識しておられたようです。イエスがなされた数々の奇跡は、それまで「誰も行なった事がない」ものであり、父なる神がご自身を通して反映されてご自身が父と一つであられる事を表す奇跡であり印であったのです。指導者たちは、古くからの律法も預言も理解していた筈なので、イエスの言動をみて彼が預言されてきた「キリスト」であると悟る事ができた筈でした。しかし、彼らが本気でキリストを待っていたのでは無かった事はこのヨハネ伝の学びの中でも幾度も学んできました。彼らは理由もなくイエスを憎み (*)、拒絶したので、もはや彼らに神の前で弁解の余地はないのだと言われています(**)。
*25節、詩篇 69:4
**ヨハネ 9:39、ルカ 12:48、マタイ12:31~32
教会時代の始まり 26-27節
イエスの十字架が近づいていたこの時、「教会」と言う時代が始まろうとしていました。それは、御霊(聖霊)が人の心に語り、イエスについて証して下さる 〜 つまり、イエスがこの世の救い主であると人々に分からせて下さる時代を指し、正に現代の私たちはその時代を生きているのです。イエスは弟子たちに、初めからご自身と共にいた彼らもこの世に証しをする立場につくのだと啓示されたのでした。正に教会時代は、イエスの弟子たちの教えから始まっているのを「使徒の働き」の書の中で読む事ができるのです。
適用:
私たちが、イエスキリストの限りない愛が自分に注がれている事を、「信じて喜ぶ努力」をする時、神は喜んで助けてくださいます。