見なくなって、また見る 16〜19節
「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかしまたしばらくするとわたしを見ます。」この16節のイエスのことばは、省略される事がなく17節と19節で繰り返し書かれています。何かが繰り返し語られる時、読者としては読み辛く感じるものですが、聖書の中でそれが起きる時は重要性が強調されていると言う説があります。間もなくこの世を去ろうとしておられたイエスが弟子たちに語ってあげられる時間がもう残りわずかであった事で、前回に並びここでも続けて、弟子たちが「つまづく事のないため」イエスは重大発言を残しておられます。我が子に(ここでは10歳ぐらいの子供を想像しましょう。)留守番をさせる時にあれこれと真剣に指導して出かける親の姿は、この時のイエスの気持ちに似たものがないでしょうか? 実際、17章に入るとイエスは彼らのために父なる神に祈りを捧げられるのを読む事ができます。
16節でのイエスのことばは具体的にこれから起きる事を啓示されています。それはこの夜の弟子たちにとっては、その数十分後から数時間後に起ころうとしていたイエスの逮捕や、次の日にも迫っていた十字架でのイエスの死によって「イエスを見なく」なり、その後のイエスのよみがえりによってまた彼を「見る」ようになる事を意味すると理解できます。そしてまた別の次元では、この数十日後にイエスが天に引き上げられる時に彼らはイエスを見なくなり、その後彼を見るのは、天国であったり、もしくは聖霊の働く中で教会時代が始まる中イエスの力を「見る」と言う意味としても理解できます。
弟子たちにはこの場でそれを理解する事はできませんでした。十字架の死やよみがえりに関する啓示は、これまでの3年間の間とそしてこの夜にもイエスが何度も明かしてきておられました (*)。現代の私たちが聖書を学ぶ中でこれらのイエスの啓示を読んで理解できるのは、全てが記録として残っている事と聖霊の助けがあるからだと言えます。しかし、その時を生きていた彼らにとっては聖霊が降られる前でもあり、もちろん新約聖書もなく、理解が困難だった事は無理もなかったのかも知れません。
* マタイ16:21〜23、17:22〜23、20:17〜19、マルコ9:31、
ルカ9:22、ヨハネ12:7、14:28、16:5〜7 他多数
悲しみの後の喜び 20〜22節
イエスは引き続き語られます。今は彼らが悲しむ時が来たと、そしてこの世は喜ぶのだと言われます。「世」とはイエスを憎んでいたユダヤ人たちを指しておられ(前回参照 – ヨハネ伝の学び16章1-15節)、イエスが十字架で死なれる時に彼らは喜ぶであろうと意味されています。しかし、そんな悲しみや屈辱は産みの苦しみなのであって、一時的な事なのだと言われます。妊婦にとって、出産と言う苦しみが通り過ぎるとそこには初子に出会って自分の胸にその子を抱く喜びが待っていて、どんなに苦しかった出産であってもこの時点では喜びだけが残りますね。それと似ていて弟子たちもこの時は悲しみが迫っていますが、再びイエスに会う時、喜びに満たされるのだよと、不安を抱いていた弟子たちに語られます。
最早その喜びは誰からも奪われる事がないは凄い約束ではないでしょうか? 確かに天国で主イエスと共に居るという事なら、もう何も恐れることも悩むこともなく喜びで満たされているのはとても楽しみなことですね。では、クリスチャンとしてこの世を生きる場合はどうでしょう? 聖霊が内側に宿ってくださり、直ぐ近くに主イエスがおられる事を理解していても、この世の波風の中で喜びを失ってしまう事は多くありますね。覚えておくべき事は、信じた時に受けとった神からの約束はどれ一つとして奪う事ができる者はいないのだという事です。イエスから目を離してしまうのは私たちの方で、その時には喜びも平安も見失うかも知れませんが、それに気がつけば再び主を呼び求める事ができます。つまり、満ち足りる喜びの根拠というもの自体は動かないものであるという事です。産みの苦しみの向こうには満ち足りる喜びが待っているのだと語っておられます。
イエスの名によって求める 23〜27節
24節と26節を考える前に、その背景を考えましょう。当時のユダヤ人たちは祭司や大祭司という存在が人々に代わって罪の生贄を捧げ、祈りを捧げていたので、人々はそれを土台にそれぞれの日々の営みの中で神に祈る事ができたと考えます。ところで、イエスもまた弟子たちに代わって父に祈ると言う形をとる事が多かったとも想像できます。聖なる御子イエスが間もなく、真の生贄として十字架にかかられる時が来ていました。そのイエスを自身の神として受け入れた人は、イエスが支払ってくださった犠牲がある故にその御名を通して 〜 すなわち、イエスというお方を通して 〜 父なる神に近づく事ができる身と変えられるのです (*)。 神は確かに全ての人を愛してくださっています。しかし、ご自身の遣わされた御子イエスを信じて愛する者は神の家族に生まれ変わり、御父はその人を大いに喜んでくださるのです。(27節)イエスの弟子たちから始まる教会時代はそれまでの「祭司が代理で神に近づく」という形を「卒業」して、イエスの御名によって祈ることになると言う、その日が近づいているのだとイエスは言っておられたのです。
* ヨハネ1:12、ローマ5:1〜2、エペソ2:13、ヘブル10:19〜20 他多数
このような経緯で、26節でイエスが「その日にはあなたがたはわたしの名によって求めるのです。」と言われたかと思うと、「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」と言われると言う、一瞬矛盾したかのようでそうでない発言をされたのです。
ハッキリと語られる 25〜30節
25節は「これからは例えじゃなくてハッキリと語るよ」と言うニュアンスのことばなのですが、確かにイエスの十字架が成就するまでは、旧約聖書の多くの預言を詳しく知らない限り、この時代の人々にとって「キリスト」と言う存在がどのような業を成し遂げてくださるのかを理解する事は困難だったかも知れません。新約聖書が整ってからの今だからこそ、キリストに関する真実がハッキリと読み取る事が可能ですが、弟子たちは丁度、その時代に突入するに当たって、聖霊の力でそれらをハッキリと理解させてもらえたのだと言えます。そして彼らは方々に散らされて、「ナザレのイエス」こそがキリストであって、彼が十字架での犠牲によって人類に救いの道を開いてくださったのだと言う「福音」を伝えたのです。その上、弟子たちの何人かは(マタイ、ヨハネ、ペテロ)実際に新約聖書の著者となったのです。
イエスがこのように話されている間、弟子たちはイエスの神性を新ためて理解した事でしょう。イエスは少しの間、自分たちはイエスを見る事ができなくなって悲しいけれども、それは溢れる喜びに変わるものである事、そしてこれからは神の御子であられるイエスの名を通して父なる神に祈る時代が来るのだと言うことなどが理解できたようです。
後悔に押しつぶされない為に 31〜33節
イエスは彼らが理解した事にホッとされているかようです。彼らがこれらの事を理解できなければ、これから起こることに押し潰されることになっていたのかも知れません。それなのでイエスは前もって語っておられるようです。理解できたのはギリギリセーフだったのかも知れません。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安も持つためです。」
33a節
これからイエスが逮捕される時、弟子たちは方々に逃げてしまいます。だけどもご自身には父なる神が共にいてくださるので、その時に後悔に押しつぶされないようにしてほしい気持ちからイエスはこう語られたのではないでしょうか?
そして続けてこの先の彼らの人生の歩みに向けて力強い励ましのことばを語られます。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
33b節
この時点で、イエスが悪魔の支配するこの世に対しての勝利がすでに決まっていたのです。それは十字架で間もなく成就するものでした。この偉大なる勝利があってこそ (*)、弟子たちであっても現代の私たちであっても、主イエスにある平安を持ち、勇敢である事ができるのです。
* マタイ10:28、ヨハネ11:25、ローマ6:23、8:35〜39 他多数