弟子たちと彼らに続く、世々に渡るクリスチャンたち(以降「諸教会」)は聖霊の助けの中で御子イエスの御名を通して父なる神に祈ると言う形で三位一体の神に接するようになり、現代に至ります。イエスキリストに関する知識を持っていながらイエスと言うお方を素通りして神に近づく事はできません(*)。 その一方で、御子イエスは真の大祭司として私たちのために父なる神に祈ってくださっているとも聖書は語ります(**)。この十字架に掛かられる前夜もイエスは弟子たちや諸教会の為に祈られたのです。

*ヨハネ 14:6、使徒 4:12
**ローマ 8:34、Ⅰテモテ 2:5、Ⅰヨハネ2:1

大祭司イエスの祈り

イエスが、後に残す弟子たちに重要な事を話し終えられたところで16章が閉じられています。17章に入るとイエスが弟子たちと後に続く諸教会の為に父なる神に祈り出されます。17章はすべてこの祈りの内容になっていて、構造としては、「父なる神と御子の栄光(1〜5節)」、「弟子たちと諸教会の為の祈り(6〜25節)」、そして「御子イエスの約束(26節)」という形で区切ることができます。

父なる神と御子の栄光 1〜5節

「父よ。時がきました」と始められたイエスのことばには、イエスが直々に宣教と奇跡の業を行なった3年の年月が終わろうとしていた事、又この世に対する勝利が確定していた事などを表しているようです。そして、その勝利によって「全ての父が御子に与えられる人々に永遠の命(魂の救い)を与える権威」を父なる神が御子に与えられる事を言い表しておられます。イエスは、人がその永遠の命を父なる神とご自身を知る事によって神から与えられるのだと言っておられます。「神の事を知る」ではなく、「神を知る」事です。そこには人と神との間にお互いを知り合う関係があります。

「栄光」

イエスはこれまでの宣教の業を振り返って、今その最後の十字架の業を遂げようとされている中、父なる神の元に戻る事を意識して祈っておられます。この世にいる間、イエスの栄光は人からは隠されていたものと理解します。(マタイ17章の出来事を除いて)そして、この地上での生涯をおくる間、イエスは彼の語ることばと行う業を通して父なる神の栄光を人々に表して来られました。そして今彼が父の元に帰って再び栄光に輝く時が、数日後に死からよみがえられる後に迫っていたのでした。それをイエスは「世界が始まる前にあった栄光」と呼んでおられます。

ところで「栄光」というものは一体どう理解するべきなのでしょうか? この世にいる間、私たちは神を目で見る事はできません。それなので、「栄光」と言う言葉は把握できるものではないでしょう。しかし、こう理解する事はできます。栄光とは神が得られるものではなく、神の御性質、御位格(「人格」に対して神の場合は「位格」と言う言葉が使われます。)の一部であり、神にあって当然なものです。いつの日か人にはこの神の栄光を見る時が必ずやってきます(*)。その時が素晴らしい時になるか、恐ろしい時になるかはその人が魂の救いを得ているかどうかにかかってくる事を聖書は繰り返し警告しています(*)。

*ピリピ2:10-11
** ヨハネ 1:12、3:16、エペソ 1:13、他多数

その一方で、人は見る事も把握する事もできない「栄光」を、人にしかできない形で神に帰する事ができます。それは信仰と愛をイエスに捧げる事で、弟子たちもそうやってイエスに栄光を帰してきた事をイエスは10節で語っておられます。このような形で教会、またはクリスチャンたちも「一つ」とされるのだと語られます。諸教会とはクリスチャン同士の集いと言う事で、「キリストの体」とも定義されていて(*)、教会が一致する事はこの世にイエスキリストの栄光を反映するのである事をイエスは以前にも語っておられます。

*ヨハネ 13:34-35

ところで、栄光の話にまつわる24節では、クリスチャンにしかわからない喜びを語っておられます。

「あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。― (中略)– わたしの栄光を彼らが見るようになるためです。」

クリスチャンとしてイエスがいる所に共にいると言う事は、場所の話ではなく、心をイエスに向け、彼を拝し従って生きていく事を指します。もちろん、天の御国に招かれる日、究極な意味で「イエスのいる所にいる」ようになりますが、この世でもイエスを拝して生きる中でイエスの栄光を「見る」事になり、それはイエスのいる所に共にいる事になるのです。

弟子たちと諸教会の為の祈り 6〜25節

イエスは6節で、弟子たちが父なる神から御子への贈り物であると語られます。父が世から取り出してイエスに与えたものだと言う概念がここにあります。これは全時代のクリスチャン一人一人にも重なる概念です。一人一人が父なる神によって、あらゆる過程を通して世の付属から救い出され、御子イエスに贈られます。(14、25節)この事をイエスは「新しく生まれる」とも描写しておられます(*)。クリスチャンになると言う事は、「神の国の一員として生まれ変わる」と言う概念です。

* ヨハネ 3:3

続けてイエスはご自身を拒絶する「世」の為ではなく、ご自身を受け入れた弟子たちや諸教会のために願っておられる事があると強調されています。しかし、その祈りは「彼らの安全を守ってください」とか、「悲しみから守ってください」とか言うものではありませんでした。現に前章の終わりでもイエスは「世にあっては患難があります」と警告しておられます。イエスが父に祈ったのは、「彼らを御名の中に保ってください」と言うものでした。「御名の中に保たれる」とは「神の中に保たれる、イエスの中に保たれる」と言い換えられます。人が神との交わりの人生に保たれ、「彼らの喜びが全うされる」(13節)事が神ご自身であられる御子イエスの願いなのです。

諸教会の一致

同じ主イエスとの交わりを持つ者たちは、その主イエスとの交わりが豊かであればある程にお互いとのクリスチャン同士の交わりも豊かになるのが自然な事です。そこには共通の主への愛があり、共通の感謝があり、共通のビジョンやミッションや目的があります。結果的にはそうやってクリスチャンの集いである教会の一致と言うものが生まれます。その事をイエスは「彼らが一つとなるため」と祈っておられます。周囲の人々はそれを見てイエスを知る事に繋がるのです(*) 。(11、21、22、23、24節)

*ヨハネ 13:34-35

御子イエスの約束

「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それはあなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」26節

このイエスのこのことばで17章は閉じられます。このことばは、イエスがこの章で祈られた内容に加えて約束も含まれています。それはイエスが父なる神の御名を「これからも知らせてくださる」と言う約束です。例え姿が見えなくなっても、主イエスはこの時以降もクリスチャン一人一人に聖霊を通して働きかけてくださっているのです。その主イエスの働き、聖霊の働きが私たちを「御名の中に保って」くださるのです。