ゲッセマネの園 1〜2節
弟子たちに全てを語り終えられ、父なる神に親密な祈りと、弟子たちや諸教会の為の切実な祈りを終えられると(17章)、イエスは「ゲッセマネ」と呼ばれる園 (*) に弟子たちと共に辿り疲れます。イエス一行はこの園に度々来ていたと書かれているので、おそらくその所有者もイエスを愛する人であって、それを許可していたと考えられます。(**)
*マタイ 26:36、マルコ 14:32
**マタイ 21:1-6, 26:17-19
ヨハネ伝では、この園に辿り着いた時点から逮捕までがあっという間ですが、他の福音書を読むとイエスはそれまでにもそこでいくらかの時間を過ごされていたことがわかります。そこには、眠ってしまう弟子たち、悲しみに満ちたイエスの祈り、天使の訪れなどが記されています。(*)
*マタイ 26:36-46、マルコ 14:32-42、ルカ 22:43
神の名 3〜6節
ユダがやって来ます、彼の後ろには、宗教指導者たちから遣わされた役人たちとおそらく600人を超えるローマ兵たちを引き連れて。彼らはどんな戦いを頭に描いていたのでしょう……? 実際にはイエスの一言だけでこのローマ兵一隊がドミノ倒しになった可能性もある事を、このシリーズの前置きとして書いた学びでも記しています。イエスは逃げ隠れせず、その場の会話をリードしながら彼らの前に名乗り出ます。兵士たちがドミノ倒しになったのは、「ナザレ人イエスを捜す」と言う彼らに対してイエスが放った「わたしです」と言う一言が、イスラエル人が恐れる神の名「エゴーエイミ」であって、その意味をこのローマ兵たちも知っていたからだと考えられます。
威厳と権威を持つイエス 4〜9節
ここで一度立ち止まってイエスの権威の凄さに注目します。イエスは逃げ隠れするのでもなく、「なるがままに」と身を任せていたのでもありません。「誰を探すのか」と彼らに問いかけることで、ユダを急がせた時 (*) と同様に、物事を十字架へと自ら促しておられたと伺う事ができます。
*ヨハネ 13:27
もう一つ見落としたくない事があります。イエスは彼らに、弟子たちは捕らえないように命じます。凄い事ではないでしょうか?何百人と言う数の敵に向かって命じられたのです。聖書には度々、イエスが「権威あることばで語った。」(*) と記しているのを目にします。実にこの時もイエスは神の御子としての権威に溢れたことばを放っておられたのではないでしょうか? 実際に、このすぐ後にペテロが一大事な事をやらかしてしまった後でも、彼らはペテロを捕らえませんでしたし、他の福音書にある記事でも (**)、兵士たちが他の弟子を捕らえようとする瞬間はあっても本気で追いかけません。イエスが言われた通りになったのです。
*マタイ 7:29、マルコ 1:22、ルカ 4:32
** マルコ 14:51
ペテロの失敗 10節
ペテロはやってしまいます。マルコスと言う名の大祭司のしもべの耳を剣で切り落としてしまったのです。恩師を守ろうとした行動なのでしょう。元々漁師であったペテロが誰かと対決して人を剣で刺したりした事は、それまでにもなかったのでは無いでしょうか? 人を殺してしまうと言う事に対しても恐れが混じりギクシャクしたのかも知れません。それとも頭にかぶるヘルメットを目掛けて脅かそうとしたのかも知れません。いずれにしても被害をかぶったのはマルコスの右耳でした。
杯 11節
イエスはそんなペテロを叱って剣をしまうように命じられ、また言われます。
「父がわたしにくださった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(11節)
また同じ場面を語る別の福音書では、イエスはご自身が「御使いの軍勢を呼び寄せることさえできるが、そうはしない」(*) と言う事を言われています。イエスはキリストとして、苦しみと十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われたのです (**)。御子イエスの模範にならって私たちも神から「杯」が渡される時、つまり試練が降りかかる時、神の愛を信頼してそれらを受け入れ、御心を求めながら日々を過ごす事がその杯を「飲む」と言う事になります。しかし覚えておく事は、イエスが十字架の上で「罪の裁き」と言う究極的な杯を私たちの身代わりになって飲んでくださったと言う事です。
*マタイ 26:53
**ピリピ 2:8
マルコス
ところで、マルコスに関してですが、ルカ伝にはこの時イエスが素早く彼に触って耳を元通りに癒された事が記されています (*)。これがイエスのこの世での最後のしるし(奇跡)だった可能性が大です。このマルコスはこの時、非常に複雑な気持ちをイエスに対して抱いたに違いありません。
*ルカ 22:51
この数十日後、復活して天に登られる寸前のイエスに任命されていた弟子たちが、聖霊に満たされてエルサレムやその近辺で福音を語り出した結果、何千人と言う数の人々がイエスを信じた事が「使徒の働き」の中で読む事ができます。マルコスもその時おそらくエルサレムにいた事でしょう。彼はその癒された耳でイエスの福音を聞く事を選んで、彼もその数の中に含まれている事を願うまでです。
逮捕
イエスがついに捕らえられます。12節では、これだけ多くの者たちがイエス一人を縛った事をすり込むかのように語っています。役人たちは、イエスが本当に神の子である可能性を振り払う事ができていたなら、これほど多くの人材を連れなかったのではないでしょうか?イエスを縛ったのも彼らにとっては気休めだったのかも知れません。それでも最終的には、イエスが命じられた通り、彼らが捕らえたのはイエスだけとなったのです。
イエスはまず、アンナスと言う名の、大祭司カヤパのしゅうとの家に連れて行かれます。14節で読む「カヤパの助言」については、11章28〜57節の学びを参照下さい。
この後、ペテロとイエスの間でフォーカスが行き来するので、19〜24節でのアンナスの前での記事は次回の投稿で学び、今回はペテロに集中します。
ヨハネ 15〜16節
二人の弟子たちがイエスの後を追います。一人はペテロ、そして「もう一人の弟子」とは著者のヨハネ、本人だったであろうと考えられています。イエスを放っておけなくて、この二人の弟子はイエスの後を追います。ヨハネは実の所、大祭司の知り合いだったと書かれています。どう言う関わりがあったかは知られていませんが、彼はすんなりと門を通してもらい、ペテロの事もお願いできた事から、門番の人たちにとっても見慣れた存在だったようです。
ペテロの否定 17〜18節、25〜27
ペテロはどうしてイエスの後を追ったのでしょうか? 当然心配だったからでしょう。「成り行きを見ようとして」とマタイ伝には書かれています (*)。イエスが違法な裁判にかけられている間にペテロは悪魔の罠にはまってしまったようです。三回に渡って「あなたもイエスの弟子ではないか」と尋ねられてしまいます。ペテロにしてみれば、イエスに関する成り行きを見るためにここまで来ているのに、今こんな大事な時に自分が注意を引いてしまいトラブルに巻き込まれている場合ではないと考えたのでしょうか? それともそれは自分に対する口実で、内心は怖かったと言う事なのでしょうか? それで彼は聞かれる度に、イエスを知らないと言う嘘をつきます。三度目になると「呪いをかけて」までイエスを否定したともマタイ伝には記されています (**)。
*マタイ 26:58
**マタイ 26:74
ペテロの悲劇 27節
そして鶏が鳴いたのです。数時間前、決してイエスを裏切らないと言い張っていたペテロにイエスが啓示された通りでした (*)。ヨハネ伝ではあっさりここで終わっていますが、他の福音書では、この時イエスが振り返ってペテロを見つめた事や、ペテロが外に出て激しく泣いたとも書かれています (**)。
*ヨハネ 13:38
**ルカ 22:61、マタイ 26:74、マルコ 16:72
計画性のあったユダの裏切りに対してペテロの「否定」は状況に追い込まれた中での苛立ちや恐れがまつわっていたのではないでしょうか? ゲッセマネの園で逃げてしまった弟子たちも結局は裏切ってしまったと言えるでしょうが、ペテロはそれをせずこの時点までは頑張っていたのです。弟子たちが悲しみに押し潰される事を心配されていたイエス (*)はペテロを労って見つめられたのではないかと察する事ができないでしょうか?
*ヨハネ17章、ルカ 22:31
「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は私たちの成り立ちを知り、私たちがちりに過ぎない事を心に留めておられる。」
詩篇 103:13-14