不正な裁判 19〜24節

ゲッセマネの園で逮捕されたイエスは、その同じ夜にアンナス大祭司の前に連れてこられ、そのまま裁判になります。アンナスはイエスに「弟子たちのこと、また(イエスの)教えについて」質問したと書かれています。つまり、「お前はいったいどこの何奴で何をやっているのか、始めから説明しろ」と言う事だったのです。アンナスは充分知っていた事をわざわざイエスの口から説明させようとしたのです。この集まりは完全に違法的な裁判でした。モーセの律法上、裁判とは二人以上からの証言から始まるもので、しかも昼間でなければいけなかったのです。そんな中でイエスの妥当な答えはこんな線です。:「こんな夜の違法な裁判でなぜ尋ねるのか? 何の秘密も無い、今までずっと会堂や宮で真っ昼間から堂々と話していたではないか。あなたたちも聞いていた筈だし、私の教えは多くの人々に知られている。証人は沢山いる。」と言うところだったのす。

そばで立っていた役人は、先程はイエスに対してなんらかの恐れを抱いていたのかも知れませんが、縛られて裁判にかけられているイエスに対して気が大きくなっていたのでしょうか? そして大祭司の前に立っても怯むことのないイエスに腹を立て、彼を平手で打ちます。イエスはその役人に向かって言われます。

「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」

(23節)

この役人のしたことは正しい裁判で行われる事ではなかったのです。しかし、あのアンナスがこの時点でそんな事にこだわる訳もないでしょう。正当な答えで返してくるイエスが面倒になったのかも知れません。彼はイエスを婿のカヤパの元に送ります。(*)

*(この時点ではアンナスは大祭司の役目から引退していた状態で、
お婿さんであったカヤパが後を継いでいましたが、アンナスの権力は
引退後も続いていた為に大祭司が二人と言う状態であったそうです。)


25〜27節に出てくるペテロの話に関しては前回の投稿で取り上げています。


カヤパの元でもイエスはご自身がキリストであり神であるとを妥協する事なく主張されたこと、またその場で「死刑に当たる」と宣言され暴行を受けることなどがマタイ伝に記されていますが、(*) ヨハネ伝では即さまその次のシーンに進んでいます。カヤパの次にイエスが回されたのはエルサレムに派遣されていたローマ総督であったピラトと言う人物の元でした。他の福音書ではピラト総督は、丁度エルサレムに来ていたヘロデ王の所にひとまずイエスを送りますが、イエスはまたピラトの元に返されることが記されています。

*マタイ26:57-68、ルカ23:6-12

釈放しようとするピラト 28〜38節

イエスをピラトの元に連れてくるに当たって、ユダヤ指導者たちにとっては問題が一つありました。それは次の日に迫っていた過越の祭りでの儀式上の決まりでした。彼らは異邦人の屋根の下にくる事は、儀式上「汚れる」事になり、祭りの食事を受けるのにふさわしくなくなると言う概念から、ローマ人であったピラトの官邸に入る事を拒みました。そんな訳で、ピラトは「植民地の民族」であった、目下の筈のユダヤ人から官邸の外に呼び出され、初っ端から彼らに対してイライラしたと想像できないでしょうか。

「あなた方はこの人に対して何を告発するのですか。」と言うピラトの質問に対して、指導者たちは真っ向から答えようとはしません。それは、ピラトにイエスが無罪な人物である事を悟られ、振り払われてしまう事を避ける為だったと考えられています。しかし、ハッキリしない答えにピラトは、彼らが自分たちでイエスを裁くように促します。彼らの答えは「イエスは死に値するが、自分たちは人を死刑にする事を許されていない。」と言うものでした。この決まりはローマ帝国と植民地との間の契約だったと理解できます。つまり、死刑に値する犯罪の裁判も処刑も植民族には許されておらず、ローマ帝国の法の下で行われると言う契約です。ローマ帝国がローマの国民でなく異邦人に行う、最も残酷な処刑として知られていたのが十字架刑だったのです。それ故、イエスが以前から明かされていた (*)、ご自身の十字架での死が成就されようとしていたのでした。

*ヨハネ3:14、12:32 等

ここでもまた、他の福音書から話を繋げます。この時点でピラトが得ていた情報では、①イエスが謀反を起こそうとしている (*)、②イエスがローマへの納税に反対している、③イエスがご自身をイスラエルの王だと主張していると言うものでした。しかし、①と②は全くの誤報です。事の真相を探ろうとして、ピラトは官邸の中におられたイエスの元にきます。

*ルカ23:2

「あなたはユダヤ人の王ですか?」とピラトはイエスに問いかけます。この時点でのユダヤ人の王はヘロデ王であった事は当然ピラトも分かっていましたが、自身を王だとイエスが自称するのかどうかをピラトも自分で確かめたかったのでしょう。とにかく何の犯罪もハッキリしないこの人物を早く釈放したくて、イエスから「違います」の言葉を引き出そうと言う試みだったようです。

イエスの答えは逆にピラトにチャレンジを仕向けます。34節のイエスのことばは、ピラト自身がイエスが「王」である可能性を個人的に追求する気持ちは有るのか、それとも他から聞いた言葉をそのままイエスに持ってきているのかと尋ねておられると思えます。これに対するピラトの答えは、「自分はユダヤ人ではないので、関係ないだろ」と言う線のものでした。

「あなたは何をしたのですか」再度ピラトは真相を追います。イエスは、ご自身は確かに「王」だが、この世に属する王ではないと話されます。ご自身の王国がこの世のものであったなら、しもべたちが敵の手からイエスを守ってであろうと言われます。ゲッセマネの園でイエスがペテロに、その気になればご自身が御父に願って幾千もの御使いたちを送ってもらう事ができるのだと言われた事がマタイ26章に記されています。ピラトの前でイエスの言われた「しもべ」とは御使い(天使)たちの事を指しておられると考えられます。つまり、ご自身の「国」は天の御国である事を語っておられたのです。

天の御国に関してはピラトは理解しなかったようです。「王であることは確かですね。」と問い進めるピラトにイエスは「その通りです。この世の王ではないけれでも、真理を明かす為にこの世に来たのであり、全て真理に属するものはわたしの声に聞き従う」のだと言う事を言われます。異邦人であり、律法ともキリストに関する預言とも関わりのなかったピラトに対して、イエスは最もシンプルな説明をされたのではないでしょうか? この後、どこかの時点でピラトがイエスのことばを思い起こし、魂の救いを得るに至った事を願うまでです。しかし、少なくともこの時、ピラトはシニカルな対応をイエスに向け、「真理なんていったい存在するのか」と言わんばかりの捨てゼリフを返します。

イエスとバラバ 38〜40節

ピラトは、イエスは多少、気が狂った人物であっても死刑に値する者ではないと判断したのでしょう。彼は再びイエスを釈放しようと試み、ユダヤ人たちの前に出ます。そして、ユダヤ人の過越の祭りでの慣しであった、「囚人一人の釈放」でイエスを釈放させようとしたのです。いくら何でも実際に犯罪を犯した者とイエスを比べれば、イエスを釈放するしかなくなるとピラトは期待したのでした。

ところがユダヤ人たちが求めたのは強盗犯であったバラバと言う人物の釈放だったのです。この時彼らには正義も何もあったものではありません。とにかくイエス以外なら誰でもよかったのです。イエスはバラバの身代わりと言う状態になられたのです。

適用:

バラバの釈放は偶然ではありません。この出来事はイエスから救いを与えられたクリスチャン一人一人を象徴します。一人一人がかつてはバラバであって、負い切れない罪を犯し、魂の死と神からの裁きと背中合わせであったのですが、イエスが身代わりとなって十字架に掛かられ、その死と神からの裁きを受けてくださったのです。クリスチャンにとって、バラバを自身と重ねる時、この真理といつも向き合わされるのではないでしょうか?

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