くじを引く兵士たち 23〜24節
十字架にかかっておられるイエスを前に、ローマ兵たちはイエスの着物を自分たちで分け合っていたのでした。ただ「下着」と呼ばれていたものは縫い目なく織られていた高価なものだったので「裂かないで」くじを引いたと記されています。その光景は、旧約聖書で預言されていたものでした。この時よりおよそ1000年前にさかのぼった時代にイスラエルを支配していたダビデ王が、やがてくるキリストが受難と十字架刑を受けている時の視点からの幻を神から与えられ、詩にしたものが詩篇22:1〜21に記されていますが、その中の18節がこのくじを引く兵士たちに関してのものです。
マリヤとヨハネへの想い 25〜27節
「十字架」と言う大きな使命と、死を直前にした肉体の苦しみの中でさえ、イエスは母マリヤをお忘れになりませんでした。イエスには、マリヤとヨセフの間に生まれた兄弟がいましたが、この時点では彼らにはイエスに付き従う信仰がなかったので(*)、この時はただ母のマリヤのみが最後までイエスと共にいたのです。イエスはヨハネ(「愛する弟子」) にマリヤを自分の兄弟たちの元に送り届けるように託する事もできたでしょうが、信仰を持たない血筋の者たちではなく、同じ信仰を持つ者に彼女を託す事が重要だったのでした(**)。そういう訳でイエスはご自身を見守る一握りの仲間たちの中から一緒に立っている二人を見て、マリヤにはヨハネを息子として受け入れるように、またヨハネ にはマリヤを自身の母として迎えるように託されたのです。
*マルコ3:21、マタイ12:8
**マタイ12:46〜50
イエスの死で完了される使命 28〜29節
「全てが完了した」− 28節がこう語るのは、イエスに与えられていたこの世での使命が全て済まされたと言う意味だと理解されています。この世を歩まれている間、父なる神からの言葉を語り、ご自身が神からのキリストである事を示すための「しるし」と呼ばれる数々の奇跡を行い、今まさに最後の使命である十字架刑も終わろうとしていたのですが、神の次元では既に全てが完了したと見做されたのでした。
この時点でイエスは私たちの想像を絶する程に喉が乾いていたに違いありません。そしてそれを訴えられたのです。それを聞いたローマ兵の一人がヒソプと言う植物の棒の先に着けられた海綿(天然スポンジ)の部分に「酸いぶどう酒」と呼ばれる飲み物を含ませイエスに差し出します。兵士たちに知る余地はあったでしょうか、そのヒソプの棒がイエスが真の「過越の子羊」(*)であられる事を象徴していた事を?
*出エジプト12:22、詩篇69:21
「拒絶」と死 30節
「完了した。」とイエスが言われる一歩手前には父への叫びもあったことが他の福音書で読む事ができます。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」* この叫びも冒頭で触れた詩篇22篇のダビデ王の預言である詩の中の言葉でもあります。これは、人類の罪をその身に負わされた御子イエスが聖なる御父から拒絶された瞬間であったと理解されています。「神から拒絶されて死ぬ」と言う悲しい裁きを、人類の身代わりとなってうける、その使命が果たされ、「完了した。」と言う叫びで、イエスキリストの霊はこの世を後にされたのでした。
*マタイ27:46、マルコ15:34
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 Ⅱコリント5:21
魂の価値
こうやって、神が取られた唯一の手段で、人類を贖う道が開かれたのです。ただ、果たして私たちは、限りのある理解力でこの事の重大さを理解できているでしょうか? 神にとって私たち一人一人の魂は御子イエスの命が代価になる程の価値があると言う事なのです (*)。人間には、このあまりにも大きな神の愛を全て測り知る事はできないでしょう。 − 少なくとも天国に召される時までは (**)? しかしそんな小さな人間でも、神に感謝し、愛し、従う事で、神に喜ばれる人生を歩む事ができるのです。
*ヨハネ17:23
** Ⅰコリント13:12
圧倒的な違い
この世にある数えきれない宗教を信仰する事と、聖書の神を信じる事の圧倒的な違いがここにあります。聖書の神の他にどの「神」とされるものが、どの「教え」がイエスキリストに比べる事ができるでしょうか? これらの中には、行いによって救いを得るように教えるものがあれば、マインドコントロールの影響から人生を破損に追い込むものもあります。そうかと思えば、役に立つ賢い教え、ご利益を約束する教え、そして中には個人の願いが本当に実現すると賞賛されるものもあります。しかし、それらは罪の赦し、魂の救いと永遠の命の確信をくれるものでもなければ、生きた神との愛の中にある関係を実現させるものでもありません。
イエスキリストをおいてこの世界の何処に、この世に来て人と共に歩み、様々な拒絶や攻撃を受けても人々にご自身の神性を表され、悔い改めを呼びかけ、真理を語る「神」がいるでしょうか? どの「神」ご自身の命を犠牲にして救いの道を開くと言う業を全うできたでしょうか? イエスキリストを通してでなければ神を知る事はできないのだと聖書は語っています。* 人間の理解の許容範囲を遥かに超えた神の愛と真実は、この世界が提供できる事柄をも遥かに超えているものなのです。
*ヨハネ14:6、使徒4:12 等
ピリピ書2:6〜11と共に。
適用:
「例えあなたがこの世でただ一人の人間であったとしても、イエスは天から降りてきて、あなたのために死んでくださっています。」 ニッキーガンベル牧師
「ヨハネ伝の学び 19章23-30節」への1件のフィードバック
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