今回の学びで携わる記事は、前回のニコデモさんの訪問のシーンでのイエスの言葉がまだ続いているのか、それともヨハネが16説あたりから自分のナレーションを入れているのかは明らかではありません。それを視野に入れて、17節からの記事を学びます。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、世が救われるためである。」
ヨハネ3:17
17節は「神の裁きなんて無いよ」と言っているのではありません。 御子なる神であられるイエスは人類を裁く権威を持っておられるからです(マタイ 28:18、エペソ 1:20-21、ピリピ 2:9等)。そして、その日は必ず来ると旧約にも新約にも預言されてきています(エゼキエル 38:16、ゼカリヤ 14:4、テモテ第二 4:1、ヨハネ 1:35、5:29等)。 しかし、御子なるイエスがこの世に人となって歩まれた事の一番の目的は十字架上で人類の罪を負い、救いの道を開かれるためでした。 多くの人々は、このキリストに関する預言と、この世の終わりにキリストが天から降りて来られて人類を裁く(「キリストの再臨」)という預言との区別がつかなっかったのかも知れません。 それをイエスは知っていて、この17節の言葉を語られたとも思えます。
18節でイエスは救われる事について、それは、御子を信じる事だと言われます。ヨハネ伝を読むにつれて、この「信じる」という意味は、普通の意味と少し異なると分かってきます。「人がイエスを信じる」、ということは、ただ単にイエスが神であられる事や、十字架の贖いについて頭で理解し、知識を持っている、ということではありません。その人が、個人的に神との深い交わりを持ち、その人生が生まれ変わりの人生になる事だ、と聖書は語ります。これについてはまた今後掘り下げて行きます。
その後、信じない人に関して、「御名を信じなかったので、すでにさばかれている」と荘重に警告が続きます。人は神から離れて生きる事を選ぶ時、救いの道には当然入れません。その人の歩む道は魂の滅びに向かっているので、「すでに裁かれている」という言い方をしているのでしょう。そして、もう一歩突き詰め、人が御名を信じる場合と信じない場合の心の状態を、光を愛するか闇を愛するかで表しています。(ここでは1章の9~13節をエコーしているのが分かります。) 闇を選ぶ時、人は罪ある心や行いを明るみに出される事を拒んでいるのです。 そして悔い改めの心で、「真理を行う」事を選びイエスのもとに来る時、その人は「光のほうに来る」のであると語っています。(19~21節) また、信仰をもってからでも人は常に光にむかって前進して神ともっと深く交わるか、或いは心の罪を指摘される事を恐れて闇に隠れるかの選択に迫られているのではないでしょうか?
一方、闇を選んで生きてきていたとしても、何処かの時点で、与えられている知性と判断力の範囲で真理を求める事を選び、神に立ち返るなら、その人は救われ、死から命へと移る(ヨハネ 5:24)事ができるとも聖書は繰り返し語ります。そして多くの人達がそうやって救われた人生を送っています。
さて、21節に出て来る「その後」とは、おそらく、エルサレム滞在中にニコデモさんからの訪問があった夜の後の事を指していると想定できます。 イエスは弟子達とともにエルサレムからユダヤの地に移動されそこで人々に洗礼を授けていた記されていますが(ヨハネ 4:2)には、実際にそうしていたのはイエスではなく、弟子達であったと書かれています。どうやらそこから余り遠くない場所で、あの例のバプテスマのヨハネも洗礼を授けていた様です。彼の弟子達が「人気がイエスに取られてしまう」と心配するという大きな勘違いをしていたのに対してヨハネが答えます:
「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」
ヨハネ3:27
この言葉は、イエスに等しい栄光が欲しかったけど... というニュアンスでない事は読み続ければ分かります。 ヨハネはおそらく、どんな境遇の中でも共通して覚えておくべき事をまず始めに釘さした上で、彼の弟子達がいかに間違っているかを説明しだしたのでしょう。 彼自身がキリストなのではなく、キリストが来られている事を告げ知らせる存在である事に念を押します。 そして、そのキリストの到来は、結婚式で花婿を待ち望む者達が彼の登場を喜ぶ事に例えられ、ヨハネ自身も僻むどころかそれを喜んでいるのである事と、これから益々イエスが栄えていき、自分は陰になるべきだと語ります。
その後の31節からは著者ヨハネのナレーションに戻ります。 書かれている事に一見、まとまりが無いように思えますが、この3章の最後の部分でヨハネが1章から書かれてきた事の要点をもう一度書き記した様です。それは次のようにまとめられます:
- 人は地に属していて、「地の言葉」しか話せない、すなわちこの世で習った事や教えられた事しか話せない事。(31節)
- イエスが神から遣わされた「上から来るもの」であられ、聖霊の無限な働きによって神の言葉を話されるお方である事。(31節)
- イエスは全てのものの上におられ、父なる神から万物を支配する権威を与えられている。(35節)
- イエスを信じて応答する者(「確認の印を押す」者)は永遠の命が与えられ、信じないものは滅びに向かっている事。(36節)
適用:
クリスチャンであっても、まだ信仰をもっていなくても、神に向かっての次の一歩に戸惑いをもってしまいますか? イエスは、御自身のところに来る人-すなわち光りの方に来る人を裁くのではなく罪から救ってくだり、また清めてくださるお方です。