数秒前までは自分と話しているこの人物がただの少し変わり者のユダヤ人としか、このサマリヤの女性には思えていなかったのかも知れません。 でもそれはイエスが爆弾発言をするまでの事でした。 「井戸の水」だの、「生ける水」だのの話をしていて、いきなりこの女性は自分の痛いところを突かれてしまいます。

「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」16節

少し楽しくなって来ていたその会話のテンションがあっという間に上がったかも知れません。

自分には夫はいないのだと、少し冷めた声で答えたでしょうか? その最低限の返答は嘘ではないけれど、彼女はそれ以上その話題を続けたくはなかった事が伺えます。しかし、イエスは続けます。隠そうとしてもイエスはすでに知っていました。

「私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
9節

「もっともです。本当です。」と念を押すところに、「確かにそれは嘘ではないね」と笑い飛ばしておられるフシがあるかも知れませんね。

この女性は五回の結婚に破れ、もう結婚はうんざりしていたのでしょうか? この時点で一緒にいた男性は結婚もせず同棲したいたという状態だったのです。それを、今出会ったばかりのこの不思議な男性が言い当ててしまったのです。 その事実の裏には、彼女がなぜ真昼間の暑い時間に人目を避けて井戸場に来るという生活を送っていたかが読み取れます。神がイスラエルに与えた律法の上でも、そしてサマリヤでの文化の上でもこの女性の生き方は許されないものとされていました。(出エジプト 20:14、22:16〜17 等) きっと彼女は村人からいつも白い目で見られていた可能性は大きく、そうであるなら多少は暑くても人と顔を合わさずに井戸に来ることができる時間帯の方が、余程彼女には気が楽な選択だったと考えられます。

「只者ではない」とギョッとした事でしょう。しかし、この人が預言者であるなら自分の抱いて来た疑問にも答えてくれるかもと思ったのでは? 20節で彼女はユダヤ人達とサマリヤ人達の「礼拝の仕方」の違いに触れ出します。 神が命じた律法の中で、礼拝する場所は必ず神が示した場所でなければならないと言う戒めがあります(申命記12:11、13〜14、16:5〜6)。 父祖の時代、神殿は折り畳み式で神が示す場所で組み立てられ、礼拝が捧げられていました。 しかしイスラエルがカナンの地を占領してから何百年が過ぎたソロモン王の時代からイエスキリストの時代までは、またしても細かい神からの指示に従ってエルサレムに建てられたものでした。 神は神殿の場所にも、また細かい事柄も礼拝にまつわる事はことごとく指導しておられます。人間が自分達のやり方で神に近づこうとする時、それは既に「神との関係」ではなくなり、「宗教」となってしまいます。神殿時代には神殿での礼拝や律法が神に近づく道として与えられ、現代はイエスキリストとの関係を通して神に近づく道が与えられているのです。(この件に関してはとびら13 「ズームアウト」からとびら18「教会が育つ その2」までに詳しく書かれています。)

それに対して、この女性の言う「この山」とは恐らく「ゲリジム山」と呼ばれていた山でサマリヤ人達はその山の上を礼拝の場としていたのでした。 彼らの先祖達は様々な教えをサマリヤに持ち込み(前回の巻を参照)神の律法と混ぜて、混乱した教えの中に生きていた状態だったのです。この光景は現代でも変わっていないのではないでしょうか? 聖書の神様は知っていても「あっちの教え、こっちの教え」と自分の気に入ったもの、都合の良いものを混ぜ合わせてしまう習性が人間にはある様です。(Ⅱテモテ4:3〜4)

21〜22節で、イエスは彼女に二つの事を語られます。

  1. この時には真近に来ていた教会時代です。「教会」とはイエスキリストを通して神を拝するクリスチャン達の集まりであって建物が有ろうが無かろうがその集まりを「教会」と呼びます。なので、エルサレムだともサマリヤだとも限定されません。(勿論それらの場所にも教会はありますが。)
  2. そして二つ目の事は彼女に「救いはユダヤ人から出る」事と、神が御子イエスを通して世界に救いを与えようとされている事に念を押されます。 ユダヤ人達は神が定めた形の礼拝を守っているので、神を知る事ができるのに対して、サマリヤ人たの教えは入り混じっているため、彼らの魂はまだ本当の神を知らなかったのです。

神の定めた形で心から神を礼拝する人をイエスは「真の礼拝者」と呼んでいます。イエスキリストがこの世に来て神の国を語り出した頃から、父なる神が新たなる礼拝の形を定められる時がきていました。それは、御子イエスキリストを通してのみ神に近づくと言う形です。 これが、神様と人間との間の「新しい契約」です。この言葉から「新約聖書」という言葉が産まれています。そしてもう一つ重大な事は、聖霊の働きです。 この教会時代、クリスチャンが神を礼拝する時、それはその人の霊と聖霊との交わりの中で御子イエスを礼拝する事が父なる神の前に来る「まこと(真)」の礼拝になります。「霊とまことによって礼拝する」とはこの事です。 人が勝手に作った形では神に来る事はできません。

余りにも知らない世界の話で、この女性はこれらの言葉の意味を全ては吸収できなかったのでしょう。 しかし、彼女には分かっている事がありました。 恐らくサマリヤでの教えの中にもしっかりとキリストが来られると言う預言は語られて来ていたと思われます。

「私は、キリストと呼ばれるメシヤ(救い主)が来られる事をしっています。」と語り、その方が来る時、もっと色んな事がわかる様になると信じている事を証ます。(25〜26節) この彼女の言葉に なぜイエスがこの人に「生ける水」を与える為に井戸場で待っておられたのかが見えてこないでしょうか? 神であられるイエスは彼女のこのキリストの救いを待つ心をご存知であって、彼女の前に現れられたのではないでしょうか。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 26節

あなたがこの女性ならどの様に反応したと思いますか? 彼女がこの直後に大切な水瓶を残して町へと走って行った事を考えると、きっとイエスの言葉は稲妻のようであったのでしょう。 日本語の「わたしがそれです」は実は例の「エゴ*エイミー (わたしはある)」だったからです。 イエスはご自身が永遠に存在しておられる神ご自身であり、同時に預言されてきたキリストであられる事をこの言葉で主張されたのです。 この言葉にあの様に応答できる程にこのサマリヤの女性の心は救い主を待っていたと語っている様な箇所ではないでしょうか? 

「神の愛は無条件」と言う言葉が教会の中で度々語られます。この「サマリヤの女」の話でも、イエスがこの女性の全てをご存知な上でそれでも彼女に会いにきてくださいました。 しかしイエスは決して彼女の生活を容認した訳では無い事を忘れてはいけません。彼女が抱えていた問題に限らず、人はみな罪を持っていて神の水準には決して届かないのです。それでも愛しみ深い神が、真実に飢え渇く人の人生にご自身を現してくださり寄り添ってくださる事ができるのは、この時真近に迫ってきていた十字架での贖いというイエスが支払った果てしなく大きな代価があるからなのです。

適用: 

あのサマリヤの女性は大切な筈の水瓶を後に残してしまうほど、イエスの啓示に敏感に応答しましたね。 私たちはどうでしょう? イエスキリストを初めて知る時であっても、またクリスチャンとして成長する中でも、一歩一歩敏感に応答したいものです。

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