「この女は僕たちの主に何の用があるんだ?」「主はなぜこのサマリヤ人を相手にしているんだろうか?」 買い物帰りの弟子たちがイエスのいる井戸場に辿り着いた時、この様な疑問を思い巡らせていた事が27節で伺えます。しかし彼らは、それまでの動きで、イエスが文化や仕来りに捕われる方ではない事を理解していたのでしょう。割り込むことを控えています。それは、丁度イエスが彼女にご自身がキリストである事を明かしておられたタイミングだったので、割り込まなかった事は幸いです。
彼女は町へ走って行って、今度は今まで避けていた人々に呼びかけます。
『来て見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいます。この方こそキリストなのでしょうか?」
29節
余りの喜びに人の目が気にならなくなった。それどころか、みんなにもこの方に会って欲しいという気持ちから彼女はこの様な言動に出たのでしょう。ここに、クリスチャンが周囲の人達にイエスキリストを伝える姿がないでしょうか? 度々イエスに出会う前までの自身の姿と出会ってからの喜びに溢れる姿は、力強い証になる事があります。そしてまた、町の人達の反応も隅には置けません。 もし、この人達がキリストを待っていた訳ではないのであれば、彼らは彼女を軽くあしらい、イエスに会いに行く事はなかったのではないでしょうか?
少し時間を巻き戻して、このの女性が町へ向かって走り去った後、さてやっとお弁当の時間のようです。それでまず弟子達はイエスに食事を差し出そうとするのですが、イエスはそれを食べるどころか、謎めいた発言をされます。
「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」32節
いつの間に食事を取ったのかと困惑している弟子たちにイエスは引き続き語ります。
「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」 34節
この時イエスの心は喜びで満ち溢れていたのではないでしょうか? この女性がイエスをキリストだと真っ直ぐ信じて自分の邦人たちにも伝えに走って行く姿を見送りながら、彼女の魂が生まれ変わった事と間もなくご自身の所にやって来る町の人達の心を思うと、胸がいっぱいになって食事どころではなかったのだと伺うことができます。 クリスチャンでも同じではないでしょうか? 神の御心に従った行動をとってそれが実を結ぶ時、何にも比べようのない満足感を経験するのではないでしょうか?
魂の収穫
その後、イエスは刈り入れの話に入ります。人の魂が救いを受けるプロセスを、ここでイエスは刈り入れと言うものに例えておられます。 人の心が救い主を受け入れる準備ができている状態を、麦の穂が色づいて収穫できる状態や「永遠の命に入れられる実」と照らし合わせておられるのです。「まだ四ヶ月あると言ってはならない」とは、相手の心が準備できていないと決めつけてはいけないのだと、イエスはこの時すでにご自身の所に向かって来ていたサマリヤの人達の心をお読みになられていた − そんな風に読み取れないでしょうか?
イエスは引き続き、種をまく人と刈り取る人についても語られます。「種をまく者」とは、福音を伝えている人で、その「種」である言葉が福音を聞く人の心の中で育っていき、いつかその福音を受け入れる準備ができれば、その人の魂は「永遠の命にいれられる実」であり、それは「刈り取る者」の収穫になると語っておられます。 例えばあの井戸で出会った女性は古くから語られていたキリストの到来の預言を聞かされていた時期が種が巻かれていた時で、この日イエスご自身が直々に彼女の心を刈り取りに来られたと理解できますね。 なので、この時イエスに向かってやって来ていたサマリヤ人達と滞在して、弟子たちと共に彼らの心を刈り入れる時が来ようとしていた事を預言されていたのでしょうか? その上、この何年か後にイエスが天に昇られた後、弟子のピリポがサマリヤに遣わされ、多くの人をイエスに導くことになりますが、この時のイエスキリスト直々のサマリヤの訪問がこの後のリバイバルにも影響していたと考えられます。
マタイ13:3〜23、使徒の働き8:4〜8 参照
イエスは町の人達にも語り、サマリヤに2日間滞在されます。そしてイエスと時間を過ごした町の人々が例の女性に言います。
「もう私たちはあなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと知っているのです。」 42節
もう、人から借りた信仰ではなく、イエスに直接出会った信仰です。イエスが世の救い主だとまで確信を持つ彼らの心はもしや一般のユダヤ人達の心よりももっと収穫の準備ができていた様です。
適用:
あなたの信仰はどうだと思いますか? クリスチャンの家庭で育ったり、キリスト教系の学校に行ってたりすると、「人から借りた信仰」になってしまう事もしばしばあります。この町の人達の様に自分からイエスの所に行って、「直接出会った信仰」持つ事が重要です。
故郷で「歓迎」される
さて、サマリヤを離れた一行は再びガリラヤのカナに辿り着きます。以前にイエスが水をぶどう酒に変えられた場所で、その記事は2章で読む事ができます。 過去にはカナの近くのナザレと言うイエスの育ちの故郷で、人々がイエスをキリストとして受け入れる事ができませんでした。余りにも近い存在だったからのようです。(マタイ13:53〜58参照) しかし今回、ガリラヤの人達はイエスを大歓迎します。 それはなぜでしょう? 45節には彼らもエルサレムの祭りに参加していて、イエスの行った事を見ていたからだと記されています。 しかし、それは真の信仰ではなかった事が読み進むと分かります。
王室の役人
近くのカペナウムに住む一人の、ヘロデ王に仕えていた王室の役人がイエスの元へやってきます。彼は、その時病気で死にそうになっていた息子を癒してもらう為、イエスに一緒にカペナウムに来てくれるようにと願います。恐らく、イエスが乗るための馬か馬車も用意してあった事でしょう。厚かましいかも知れない。しかし、息子の命にはかえられない。お金ならいくらでも払う。そう思ったかも知れません。
この時、この役人はイエスを神として崇めていたでしょうか? 彼にしても、その他のガリラヤの人達も持っていたものは、「イエスが奇跡を行う事ができる神の預言者」としてしか見ていない御利益的な信仰だけだった事がイエスの返事で分かります。
「あなた方は、しるしと不思議を見ない限りは決して信じない。」(48節)
明らかに、この「しるしと不思議」とは、人々が見てきたものとは別のようです。 イエスはこの役人と同行する事をせず、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(50節)と言われます。 この役人はイエスのその言葉だけにすがって家路に付くと途中で彼の家から向かってきたしもべたちと出会い、イエスが語られた時刻にその息子が癒された事を知ります。 ここで考えたい事は、イエスがその場にやって来て手で触れて人を癒す事も大きなインパクトがあるこどですが、それだけでは故郷の人たちは信じる事ができず、彼らにはもう一段階上の奇跡、すなわち言葉だけで奇跡を行う事を見なければ、イエスが神である事を信じる事ができなかったのでしょう。言葉だけで奇跡が行えるのであれば、それは神の技だと分かります。それ故にイエスは言葉だけでの「しるしと不思議」を見せてくださったようです。その結果、この役人と彼の家の人達がイエスを神だと信じる事ができたのです。
適用:
私達は神の奇跡を直ぐに見なくても、神のことば、聖書のことばにすがっている事を要求されています。