この箇所は「サマリヤの女の話」として知られていて、サマリヤという土地に住むある女性が井戸場でイエスキリストに出会う事がきっかけに、サマリヤに住む多くの人たちがイエスの救いに導かれる話の初期の段階です。 この回では、サマリヤ地方の簡単な歴史と、イエスがどの様にこの女性の心を真実に導かれたかを学びます。
シーンは、パリサイ人たちがイエスの人気がどんどん上がっている事をイエスが知る場面から始まります。 その事を逆に知ったイエスは、ユダから北に向かって再びガリラヤ地方への途につきます。自分達の地位やプライドを守ろうとするパリサイ人たちの危険性をイエスは充分分かっていたからでしょう。神の御子であられるならば、身を守るために逃げる必要は確かにないのですが、イエスが守ろうとしていたのは父なる神のご計画だったと考えられます。 パリサイ人や宗教指導者たちに捕らえられる事を、父なる神が許されるにはまだ時が来ていなかったのです。
サマリヤの歴史背景
そんな訳で、イエス一行はガリラヤ地方への途につきます。その途中にサマリヤと言う名の地方があり、ガリラヤ地方にはこのサマリヤを通るのが一番の近道だったようですが、イスラエルの人々は一般的にサマリヤを通る事を避けていました。 その習わしには、歴史上の事情があり、Ⅱ列王紀17章で読む事ができます。あらすじとしてはこうです。 その昔はサマリヤもイスラエルの一部でしたが、ある時そこに住む人たちがアッシリア帝国の手にかかり、捕虜として周囲の国々に散らばされてしまいます。そして、アッシリアの王はサマリヤの土地が荒地に変わらない様にと周囲の国々から人を移民させます。そこに住むようになった人々は数多くの偶像を持ち込み、イスラエルの神に教わってはいましたが、その他の偶像も一緒に拝むと言う慣しをもった民となってしまいました。イエスの時代になった頃には、イスラエルの領土に戻っていて、サマリヤの住民たちはイスラエル人との間の混血の民衆になっている状態でした。それでも相変わらす入り混じった教えをもっていて、周囲の「純イスラエル人」にとってはサマリヤの人たちは関わってはならない存在とされていて、不仲な間柄だったのです。
井戸場で
6節では、そんな背景の中、イエス一行がサマリヤのスカル(シェケムとも読むようですが)という地にある1つの井戸に辿り着きます。 その井戸はイスラエルの先祖のヤコブが掘ったものであるとの事です。(創世記48:22参照) 時間は「6時ごろ」とありますが、これは現代で言う正午あたりだったと理解されています。 そこに辿り着いてイエスがその井戸で休んでいる間、弟子たちが買い出しに出かけます。その間の話ですが、実はイエスは誰かを待つためにその井戸に来られた事が伺えます。そこへやって来たのが一人のサマリヤの女性。彼女は自分が神に「待ち伏せ」をされていたとは知る余地もないのでした。
当時、一般の家庭はおそらく朝や夕方という涼しい時間帯に水を汲みに来ていたのに対して彼女が現れたのは正午という一番暑い時間帯だった様です。 それは文字通りの井戸端会議をする人達の目を避けての行動だったと理解できます。 彼女が井戸に着いた時、そこに座っていた一人の男性がユダヤ人である事は、イエスが着ていたもので分かった事でしょう。人目を避けて来たのにそこに居るのは、サマリヤ人をさげすむユダヤ人の男性ではないか。彼女は面白くなかったのではないでしょうか? ところが思わぬ展開に。
「私に水を飲ませてください。」
7節でイエスが彼女にそう語りかけます。 そもそもユダヤ人の男性は通常、公共の場所で女性と話す事はありませんでした。 教師と言う立場なら尚の事で、自分の家族の女性ですら、一緒に歩く事はなかったようです。 なので、サマリヤ人をさげすむユダヤ人の男性がサマリヤの井戸に来て、事もあろうがサマリヤの女性に話しかける事は持っての他だったのです。なので、イエスに話かけられてこの女性はかなり驚いた事でしょう。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか?」(9節)と言う率直な質問で返します。 お願いされた水は恐らくこの後の会話の間に手渡していたと推測できます。
次の10節のイエスの言葉を砕いて考えます。
「あなたが神の賜物を知り…」: 神が人間一人一人に与えたいと願っておられるものは魂の救いであり、同時にそれは聖霊との交わりなのです。別の箇所でもイエスは聖霊の事を魂を潤す水にたとえて語っておられます。(7章37ー39を参照)
「あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら…」すなわち、「あなたがこの私が誰であるかを知っていたなら…」: イエスが自分がただの人間ではない事をほのめかしています。 この言葉の背後には、この女性が彼女なりの生活の中で、神に対する飢え渇き、真理に対する渇きを抱いて生きて来ていた事をイエスが知っておられた事が浮き出てはいないでしょうか?
「あなたの方でその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えた事でしょう。」: つまり、ご自身を呼び求める事によって、救いを得て魂を潤される事を経験できるのだと語っておられます。
新改訳聖書の言葉の選び方からは、この女性は少しおしとやかなイメージを浮かばせるものがあるのですが、1つ間違えるとちょっと「おとぼけさん?」とも思えるかも知れません。しかし、実のところ彼女は少しスレた女将さん風の性格だったと想像するともっとこの二人のやりとりが理解し易いのではないでしょうか? かいつまむと、イエスはこの女性にご自身が魂の救い主だと言う事を語っておられたのですが、彼女は直ぐにはそれが分からなかったので、「水をくむものも持ってないのにどうやって私に水をくれようって言うんだい?」とか、「あなたはこの井戸を作ってくれた先祖のヤコブよりも偉いとでも言うのかい?」と言う類の挑戦的とも言える言葉だったのかも知れません。
生ける水
そこでイエスが説明に入ります。 13〜14節でイエスは、ご自身が与える「水」とは物質の水ではなく、ご自身がその人に与える事のできる聖霊の存在が、心に湧き出る泉の様にその人の魂を潤して下さるのだと語っておられます。 井戸で溜まっている物質的な「この世の水」を、人間が一般に自分の心を満たすために得ようとするあらゆる事柄、お金、地位、快楽、恋人、達成感等にに例えてみる事ができます。 これら自体は悪いものではありませんが、神にしか満たす事の出来ない心の渇きを人間はいつの世もそのような「この世の水」で満たそうとして来ていますね。 その水が溜まった井戸の水に例えるのであれば、イエスの与える水、すなわち聖霊は、その人のうちで溢れ出てくる泉の様で永遠の命を与えて下さるのだと語っておられます。 なので、再び魂を満たすために「この世の水」に頼らなくても良くなる;聖霊の存在とはその様な素晴らしいものなのです。
(エレミヤ書2:13 参照)
さて、この説明が彼女にはまだ通じていないようです。 15節の彼女の言葉を女将さんバージョンで書いてみると: 「ちーっ! そんな水が有れば欲しいもんだね。 だったらここに毎日やって来なくてもいいんだけどねー!」と投げやりな応答だったのではないかとも想像できます。
苦笑いしながらも次にイエスが本題に入る切り札を持ち出されますが、イエスが話題を変えられる様に思えても、実は引き続き「生ける水」の話に繋がっている話題です。 このサマリヤの女性にとって、初めはイエスがただのユダヤ人の男性でしかなかった心情から、実はその男性が、自分がずっと求めていた神であり救い主であると分かっていく様に、イエスは段階を踏んで彼女の心を導いてくださっていたのです。
適用:
「この世の水」では潤せない人間の魂を潤す事ができる神様を呼び求める人は、必ずイエスキリストの「待ち伏せ」に出会う事ができるのです。 もしあなたがクリスチャンであるなら、イエスはあなたの人生のどこで待ち伏せをしておられたか、どの様な段階を踏んであなたの心を導かれたかが、生まれ変わった時の大切な思い出ですね。
黙示録 21:6と共に。
「ヨハネ伝の学び 4章1〜18節」への2件のフィードバック
コメントは受け付けていません。