イスラエルには一年中、いくつかの祭りが神によって定められていて、人々がエルサレムに集まる事が年に何度がありました。 五章に入ると、何かの祭りでガリラヤにおられたイエスが再びエルサレムに戻られていますが、弟子達の事が記されていない事から、イエスがこの時一人で旅をされていたのではと言う説も考えられています。 お一人であったなら、周囲の人々もイエスに気がつかなかったか、メディアのなかったここの時代は大半の人達はイエスの顔を知らなかった事でしょう。(少なくともこの時点では)
不思議な池
「羊の門」と言う場所が2節に記されていますが、当時エルサレムの町はぐるりと壁で囲まれていて(現代は嘆きの壁だけが残っている)、所々に門が設けてありました。 羊の門は、その中の一つで、神殿の近くにありました。 その門と神殿の間辺りに、このベテスダと呼ばれる謎の池がありました。この池にはこの章で述べられている通り、「水がかき回される時」があった様です。その事についての詳細も何も他には書かれてはいないのですが、専門家たちは天使の技によって時々水がかき回されていて、その時に一番先に水に入った者の体が癒されていたと言う事が実際に起こっていたか、もしくはそんな言い伝えがあった可能性を語っています。
この章に出てくる名もない寝たきりの男性は、ホームレスの状態だったのか、誰かに送迎されていたかは謎ですが、多くの病人達と共にその池の辺りに常にいた様です。この人は体の不自由な状態が38年続いていたとの事です。この場面では、イエスがその事を「知った」と書かれてあります。神の御子であられるイエスがこの世を歩まれていた間、 彼が「情報を得る」場面や聖霊に導かれると言う場面が福音書の中に度々出てきます。 その反面、人の心をご存知であったり、未来の預言をする事ができたりもしておられたのですが、これはどう言う事なのでしょうか? 不思議ですね。しかし、この次の様にに理解できます。
限界の中に生きる神
神の御子イエスは、この世に「完璧な人間」として来られたので、私達と同じ様に限界の中に御自身を閉じ込める事を選ばれています。実際に乳児としてお生まれになった時イエスは守られなければならない存在だったのもその表れと言えます。 十字架で生涯を終えた後、イエスがよみがえられ、天に昇られた時、父なる神から万物を治める権威を受けられておられます。※ 肉体をもってこの地上を歩まれたイエスは罪一つ犯す事なく、神が元々意図しておられた聖なる「完璧な人間」を実現された事が聖書に書き表されています。これは、アダムとイブを始め、誰一人として実現できていない事で、それをイエスキリストのみが実現されました。※※ そして、イエスは神との完璧な関係を実現され、父なる神の力が溢れ出る生涯を送られたのです。 これらを視野に置けば、この男性を見つけた時、聖霊の啓示によってか、あるいは周囲の人たちからのインプットによって、この男性の状況を知ったと考えられます。
※ピリピ 2:6〜11、黙示録 1:17〜18
※※ Ⅰ コリント 15:21〜22
7節でイエスは、この男性に「良くなりたいか」と尋ねられます。 分かり切っている質問だったでしょうか? これはもはや質問だったのではなく、チャレンジだったようにも受け取れます。 余りにも長い間一つの状態でいると、人間はそれに慣れてしまい、その中で生きる方法を覚えていくとその方が楽になってしまい、改善される事が返っておっくうになってしまう事はないでしょうか? イエスはこの男性の諦めの心を読まれ、もう一度人生に目的を持つ事をチャレンジされた様にも思えます。
しかしこの男性は、イエスが誰だか知らなかった事がこの先を読めば分かります。ただ今やって来たこの若い男性に、自分の望みの無さの愚痴をこぼしている感覚だったかも知れません。そこへイエスはまたしても言葉一つでこの男性を癒されます。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 8節
この言葉に従おうとした瞬間、男性は直ちに癒されてしまい、イエスに言われた通り、床を畳んで運び歩く事ができたのです。物凄い奇跡に男性自身が驚いている間にイエスは人混みに消えてしまい、誰が自分を癒したの分からないままでした。
無数の律法
それが起きたのは安息日だったと9節にあります。 それが何を強調しているかは読み進むと分かります。 自分の身に起きた事を吸収しきれないまま、その男性は宮の中を歩いていた所、ユダヤ人達(宗教指導者を指す – 恐らくパリサイ人たち )からの咎めを受けます。彼らがこの男性が「安息日の掟」を破っているとみなしたのです。 神がこの何百年も時前にモーセを通してイスラエルに与えた立法の中で、週の7日目を安息の日として、仕事をせずにゆっくり休む事をイスラエルの人達に戒めておられます。※ 神が愛を持って意図しておられた「休息の日」に関しても、その他の律法にも、古くから宗教指導者たちが、何百何千と言う細かい詳細をつけて、人の行動を圧迫してしまう決まりとしていた様です※※。なので、この男性が自分の床を畳んで持ち歩く事自体も「働く事」と定義づけられていたのです。
※出エジプト20:8
※※ マタイ12:12、 23:47
注意を受けて初めてこの男性は先ほど自分を一瞬の間に言葉だけで癒した男性の事を何も知らなかった事に気がついたでしょうか? とにかく、ある人が自分に床を畳んで歩けと命じた事を指導者たちに告げます。しかし、誰だったのかは答えられませんでした。 想像の世界ですが、これを聞いた指導者達の背筋になんだか寒気が走ったのを想像できないでしょうか。「さては、この人混みの中にあのガリラヤからのイエスがいるのかも知れない。」
心を探られる神
それはさて置き、この男性がまた宮の中をウロウロしていると、今度はイエスの方から彼を見つけ、彼に言われます。
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪い事があなたの身に起こるから。」 (14節)
聖書の教える通り、罪のない人間が一人として存在しない事*を考えると、ここで言われた事は、この男性が心の中か、あの動けなかった状態になる以前の行いの中で犯し続けていたある一定の罪をイエスは知っておられたと考えられます。あの状態になる事はこの人に対しての神からの警告だったとも考えられます。
※ イザヤ53:6、 ローマ 3:23
このすぐ後、この男性はさっきの指導者達の所に戻って、自分を癒したのがイエスだった事を伝えます。 そして、指導者たちは更にイエスを憎む様になるのですが、ここではこの男性の姿勢に焦点を置いてみましょう。
気になるのは、この男性がイエスにどう応対したかです。何も書かれていないので、断言はできませんが、彼は自分の身の起きた事が神の技であった事を理解したでしょうか? 彼にイエスへの感謝の気持ちがあったでしょうか? またこのお方は誰なのかと考える事や尋ねる気持ちはあったでしょうか? 心を探られて、悔いて罪の告白をできたでしょうか? 実際のところ、人間には神の技を目の当たりにしても体験しても心を頑なな状態に維持する事ができてしまう傾向が有るのです。※ 奇跡を目撃したり体験する時、聖霊がその人の心を揺さぶっておられるのであれば、誠意を込めた対応がどれほど重要であるかを聖書は幾度も語っています※※。
※ マタイ12:13〜14、28:12〜13、 ヨハネ11:45〜46 等
※※ マタイ12:22〜32、ヘブル3:7〜11、10:29〜31、ローマ1:20等
適用:
あなたの抱えている問題に対して、神様はどんな風に、今あなたに希望を持つように働きかけておられるでしょうか?
あなたの人生に犯し続けている罪があり、その罪から悔い改めるように神様から示されていませんか?聖霊に祈り求めて下さい。あなたが悔い改めを願う時、聖霊があなたの心を探り、必ずあなたの神様への呼び求めに助けを与えてくれます。