一人の人間が奇跡的に癒された事を知って、ユダヤ人たちは(宗教指導者を指す)「神の御心に反している」と判断した裏には「みんなで決めれば白でも黒」と言わないばかりのメンタリティーを表していないでしょうか? 38年間、身動きが取れなかった男性がイエスの一言で自分の寝床を畳んで歩き回っている(前巻きを参照)ー それ自体が神の力が働いた結果だと言う可能性を普通は考えるのではないでしょうか? しかし、人間は、「白」を見せられても、自分の都合に合わせて「黒」だと決めてしまう事ができてしまうのです。 同じ考えを持つ仲間がいれば更にそう定めてしまう力が増すのではないでしょうか? 16節では指導者たちがイエスを「迫害した」と書かれています。それに対して凄いと言えるのは、集団意識で強気になっているパリサイ人たちが相手でもイエスは怯む事も自分のスタンスを曲げる事も一斎なかった事です。
安息日に人を癒す = 安息日に働く = 黒 。 こう決め付ける事によって、目の前にいるこのナザレからの男が預言されてきたキリストである可能性を追わなくてよくなる訳で、全て今まで通りという事にできます。この方がこの指導者たちには好都合だった事でしょう。
火に油
ところがイエスは返ってこのご自身への迫害の火に油を注ぐ発言をします。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
(17節)
もし、全能の神が「安息日」だからといって働かなくなった場合を想像してみましょう。まず物理や生物の世界から考えると宇宙の法則が崩れる、地球が止まるどころか太陽系の引力もなくなり全ての惑星は吹っ飛ぶ、生命という生命は全滅する、等は序の口。時間も光も暗闇もどうなるのか想像がつきません。しかし、神が3、4次元の事柄以上に重視して働いておられるのは、人類の魂の救いと人間界に御心がなされる事で、イエスはそれらの目的の為にこの世に来られたのです。なので、御子なるイエスが父なる神と共に常に働いておられるのは当然の事なのです。
指導者たちの殺意
こんな風に、この章の中でイエスは幾度も神をご自身の父として語られ、「安息日の掟を破った」上に、ご自身を神と等しい存在である事を暗示された事で、指導者たちの怒りは増して、彼らはイエスに対する殺意を抱くようになってしまったと18節に書かれています。
仮にこの人たちが本気でキリストが現れるのを待っていたのだとするとどんな風にこの事態への対応が違っていたでしょうか? 人の身体を言葉一つで癒してしまう奇跡を見たら、この不思議なナザレのイエスに探究心を持つのではないでしょうか? それに関しては次号でもう少し詳しく学びます。
イエスの自称
この辺りから30節ぐらいまで、イエスが道理を説いておられます。 入り組んだ話し方をしておられるので、ポイント別に分けて書いてみます
イエスは父なる神と共に働いておられ、自分の意思では何もなさらない。19、20、30節
この章ではこの後もイエスが念を押す様に、父なる神と一つになってでなければ行動を起こす事はできないと語られます。覚えておくべき事は、イエスに一人歩きする能力そのものは持っておられたと言う事です。 一人の人間としてこの世を歩むに当たって「神との関係を全うする」事はイエスにしかできなかった事ですが、全うする=完全なる服従なのだから、やはり、一人歩きの能力がなければ服従も無いからです。 この一人歩きの能力を活性させようと悪魔は頑張るところが「荒野での試み」として知られていますね。 なので、ここで言う「できない」は「やらない」と言うニュアンスで読み取るべきでしょう。 父なる神との愛の関係の中に父がご自身のなさる事を、人として限界の中にこの世に住まわれるイエスにお示しになられたと理解できます。
これよりも(男性を癒した事よりも)さらに大きな技を人々は見る事になる。20節
そもそも指導者たちのイエスへの迫害の種火になったのは安息日に人を癒すと言う、彼らが「仕事」とみなしている事をイエスがなさった事なのですが、イエスは「こんな事で驚いている場合ではない。今にもっと大きな事を見る事になる」と言うのです。聖書を読み進むと、この後、確かにイエスは死人を蘇らせたり、それどころか、ご自身までも死からよみがえり、教会の時代をも立ち上げられたのです。現代の時代に生きる人間も含め、人類はこの上更にキリストの再臨や後の終わりの裁き、その他に起こると預言されている事柄も見る事になるのです。
御子を敬う=父なる神を敬う。 23、24節
やがて来ようとしていた御子イエスの十字架は人類に神の前に来る唯一の道を作り、信じる者が罪から清められる唯一の道だったのです。 その御子を敬わないならば当然それは神に対する侮辱になります。 流石にこの件は聖書の中心メッセージなので、ヨハネ伝の中でも度々取り上げられます。次の号でもっと詳しく学ぶ事になります。
イエスは命を与える力や死人を蘇らせる力を持っておられる。21、24、25、26、28節
無論、三位一体の神であられるイエスは、創造の神でもあられ、命という命は神の手の中で造られているのです。 神には命を与える事も、死から蘇らせる事もできてしまうのです。イエス自ら、終りの日に全ての人間を蘇らせるて裁きを施すと預言しておられます。26節に関しては、「父なる神が持つ命を与える力は、御子イエスのものでもある」と言う意味になります。
25節の「死人」には二つの意味があると理解する事ができます。 一つは救いを受ける前の状態の人間を指します。神を知らずに生きている間、人は神に対して死んでいる–つまり神に反応しない状態のままでいるからです。しかし、この世に生きている限り、イエスの声を聞くーつまり、福音を理解する事とイエスに正しく応答する事によって永遠の命を与えられます。その場合、「死から命に移っている」と言う事に当てはまります。 そしてもう一つはこの世での期間を終えて死んでしまっている場合、やがて全てほ人間がよみがえって裁きを受ける事になります。
イエスは人類を裁く権限を持っておられる。 22、27、29、30節
この権限は限界の中におられても与えられていたと理解できます。 それ故、イエスは人の心を読む事もできました。 一人一人、個人的に的確な言葉をいつも語られる場面も聖書の中で幾度も境遇するのもその人の心を導くためです。なぜなら人は生きている間に神から心を探られ追い詰められる時、悔い改めて神の愛に来る事、戻る事ができるからです。
しかし、人生を終えた時に裁かれる場合、十字架の贖いを受けている人は「善を行った者」として永遠の命を受けます。 しかし贖いを受けていないなら神を拒絶し続けた結果、「悪を行った者」としてその裁きは永遠に続き、神から永遠に離されてしまうとイエスご自身が話されています。この事は「地獄」「ハデス」、「第二の死」等と言う呼び方があります。 これらはみな終わりの日に人々が一旦死から甦らされた時に起ります。
適用:
あなたは今、自分の魂がどの道を歩んでいると思いますか?魂の代価は十字架で払われています。なので、個人に要求される事は神に帰る事、つまり御子イエスを敬い呼び求める事です。イエスを自分の神として敬い、従う姿勢でいるのであれば果てしなく幸いな事です。