ある日本の漫画家の書いた自身の実話です。彼女が街の本屋さんにフラリと入って行き、自分が書いた漫画が置いてあるか、人気がありそうかを調査したかったそうです。漫画のセクションには立ち読みをしている人たちが何人かいて、その中で一人の女子高生が、彼女の書いた漫画を読んでいたのを見つけます。その漫画家は、そっとその女の子の横に立って、「ねえねえ。私が〇〇(自分の芸名)なの〜。」と自分の鼻に指をさしてその娘に向かって言うと、その娘が怪しげな顔をして後づさりします。その時彼女は「失敗した。」と悟ったそうです。そもそも彼女は自分の顔を公開せずに漫画家の働きをしていたので、彼女の顔を知っている人は少なかった上、その場では出版社や本屋さんからの証言もありませんでした。この女子高生にしてみたら今目の前にいるおばさんがその漫画家だと信じる根拠は何もなく、彼女がとった行動は気違い染みた事にしか思えず、少し身の危険をも感じたかも知れません。

その話は笑って済ませる事ができます。しかし、神が御子をこの世に送られる時、人々が彼がキリストであり、神である事を理解する事は果てしなく重大だった事は言うまでもありません。前回の学びでは、指導者たちを相手にご自身の御子としての権威と、いかにご自身は父なる神の御心以外の事は何も一人ではできない(しない)と言う事を語られました。ユダヤ教指導者たちを相手に、イエスの言い分はご自身が神であると言う、大胆なものでした。イエスの怯まない発言のため、彼らの心の中には恐らく「どの様に証明するつもりだ」と言う思いがあったのをイエスはご存知だったと伺えます。今回は引き続き5章の終わりにかけてイエスが彼らにご自身がキリストである事がどんな風に立証されているかを語られます。

「もしわたしだけが自分の事を証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。」と、31節でイエスは目の前にいる指導者たちに語られます。この言葉を裏付けるものは、旧約の時代からの律法です。物事を立証しようとする時、二人か三人の証言を必要とすると言う戒めです。(申命記17:6, 19:15)


父なる神の証言 (31〜32節、37〜38節)

まず一番に、誰よりも何よりも確かにご自身を立証してくださるのは父なる神だと言われます。「わたしについて証言する方が他にあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実である事は、わたしが知っています。」と言う32節の言葉はすごいものではないでしょうか? 「わたしが知っている」と言われているのです。人間が知ろうが知るまいが、信じようが信じまいが、御子であられるイエスが父なる神の証言を直接知っていると言っておられるのです。そこには人間が納得する、しないに関わらない神の権威を見る事ができないでしょうか? 何かに例えるとすれば、何かの出来事をたった一人で目撃してしまって、周囲では誰一人としてその事を信じる人がいなくても、その人自身は自分が目撃した事が確かである事を知っていますね。それには周囲からの証言を必要としません。イエスの立証は父なる神と御子との深い関係から始まっています。イエスは、彼らはその父なる神を知らないと断言されます。(37〜38節)それは神が遣わした預言者たち(モーセを含めて、旧約時代にキリストについて預言した人たち)や、現にキリスト自身をも彼らが信じないからだと言われます。


バプテスマのヨハネの証言 (33〜36節)

バプテスマのヨハネがイエスをキリストであると証言しているのを1章の34節までの三つの学びで読む事ができます。 このヨハネに関しても「キリストの先駆者」として、旧約の時代から預言されて来ています。そして、実際に宗教指導者たち自身も人を送ってヨハネに関して調査させたり、彼ら自身がヨハネの語る言葉を喜んだ事を35節で指摘しています。神の言葉を喜ぶ事とそれを受け入れ神に従う事とは必ずしも同じではない事がここで浮かび上がっています。人間は神の言葉の真実を喜んだとしても、そのもう一歩先に進んで神に正しく応答する事を拒む事ができてしまうのです。この指導者たちも正にその様な姿勢であったのでしょう。(*)

(*) 例: マルコ6:19〜27


イエスの技の証言 (36節)

次にイエスは、ご自身の行う技、つまりあらゆる奇跡、そして何よりもイエスの語られる言葉によって人々の心を造り変えておられる事がもう一つの証言であると語られます。これは目に見えている現象なので,否定する事は難しいものです。


聖書の証言 (39〜40節)

ここで言う聖書はもちろん旧約聖書の事です。旧約の中でキリストに関する預言が多くあります。もしこれらの預言がなかった場合、いきなりイエスが来られてご自身が神であって救い主であると語っても、丁度文頭にある話の様に人々には、イエスを信じる根拠は全くなかった筈です。何百年、何千年も前からのキリストの到来の預言は、必要不可欠なものだった事がわかります。

これらの預言は当時は巻物に手で書き写されていたもので,一般の庶民にはなかなか手に届きにくかった事を想像できますが、よりによって普段一番多くそれらを読んでいた筈のその指導者たちが、実際にイエスをキリストと認めて救いを得ようとしないと語られます。とても悲しい事です。


突き詰める所 (41〜47節)

彼らの心をご存知であられたイエスは、彼らがイエスをキリストとして受け入れない本当の理由を知っているのだと語られます。彼らが「信じている」と自称しているモーセの言葉でさえも実際は信じていはいない事、彼らが求めているものは人から受ける栄誉で神からの栄誉は求めていない事などであると言うのです。 
モーセの名前だけを使って自分たちの地位や名誉を高めようとしている彼らには、モーセ自身も天国でうんざりしているのだと言う事でしょうか? そのモーセが‘裁きの日には彼らを訴える事になるのだと語っておられます。彼らの心の実態を厳しく指摘される言葉の裏には、遅すぎる前に悔い改める事を呼びかける神の愛が響き渡っていないでしょうか。


適用:

あなたは聖書を学ぶ時、どの様な姿勢で学んでいますか? 神の言葉を喜びながらもあたらずさわらずの距離を取っていませんか? それとも、自分の歩む道やスタンスが間違っていると示されているなら、神の愛と赦しに逃げこむ事ができていますか?