野宿と言うものは古い時代にはごく頻繁に行われていた事でしょう。イエスと一緒にいた五千人以上の群衆の殆どが、前日の奇跡の夕食(6:1〜21)をいただいた後、その場に残って夜を明かしたと察知できます。彼らは「この人がイスラエルの王様であったならお腹を空かす人はいなくなる」とでも思ったのか、イエスを王にしようと考えていたと前回の投稿で学びました。群衆の多くが、弟子達だけが船に乗って行ってしまったところまでは知っていたようです。取り合えずイエスはこっち側にいるので、明日に次に日にでも見つけて説得しよう思って安心していたかも知れません。そんな感じで星空の下で寝ている間にイエスが湖を歩いて渡り出していた(6:16〜21)とは思いもしなかったようです。今回はその次の朝のシーンから始まります。
群衆はイエスがいない事、昨日あった船には弟子達しか乗らなかった事などのつじつまが合わなかったので、取り合えずイエスの弟子達を追いかける事にしました。ちょうどそこに何隻かの船があった事から彼らはそれらに乗ってカペナウム方面に向かったのですが、おそらく貸し船か渡し船だったと思いたいですね。それでも五千人が皆乗ったとは考えにくいので、おそらく中心的な一部の人たちの行動だったと考えられます。(22〜24節)
イエスの話された要点
この群衆がカペナウムの会堂(59節)でイエスを見つけてからのやりとりの中でイエスは幾つかの重要な点に念を押されます。それをまとめた形で書きます。
(今回に収まりきらない要点もあるので、それらは次回の投稿に回します。)
- この世の物質的なパンとは、肉体への食物となるもの、または物質的な豊かさにも例える事ができます。そう言ったものに心を奪われるのではなく、神がくださる「いのちのパン」を追い求める事が大切である事:(27、32、33、50〜51節)
- ご自身がその命のパンであられる事: (27、35、48〜58節)、
- ご自身がキリストである事:「人の子を神が認証された」(27節)、「神が遣わした者」(29節)
- ご自身が神の御子である事:(38、39、40、44〜46節)、
- エゴーエイミ(35、48節など)
- イエスを信じるものは永遠の命を授かる事:(47、53〜58節)
いのちのパン
人がイエスキリストを自身の救い主として受け入れる時、罪が赦され、天国での永遠の命を頂くのですが、それをこの場ではイエスキリストを「食べる」と言う形でイエスは表現されています。人の体は食物があってこそ生きていく事ができます。聖書は所々でその食物を一色たんに「パン」と言う言葉で表しています。それに対比して、神から頂く永遠の命の場合は、救い主イエスキリストがその人の内側に宿ってくださる事に依ります。ただそうなる事が可能になるのは、イエスの体が十字架にかけられ、人類の罪の裁きを代わりに受ける事が要されていました。この記事の時点ではイエスはそれを預言されている形です。後に「最後の晩餐」として知られる十字架の前夜のシーンで、イエスはご自身の体が裂かれて血を流す事を預言され、それは信じる者に永遠の命を与える「パン』として表現されています。裂かれた(もしくは、この場では裂かれる予定になっていた)イエスの体と、イエスがその人の内側にやどられる事が、パンを食べて生きる事に比較されています。信じる者が「いのちのパン」の重要さを味わい知る為にこの最後の晩餐の時から「聖餐式」と言う儀式がイエスご自身によって定められて現代に至っています。(ルカ22:19〜20、Ⅰコリント11:5〜26)
イエスを見つけた群衆
この対話の流れとしては、まず彼らがイエスを見つけて、「あれー、イエス様〜。いつの間にこっちに渡ってきたんですか〜?」で呼びかけているようです。(25節)ところが彼らの心には、如何にイエスを王になるように説得するかの企みが既にあった事でしょう。それを見抜いていたイエスは答えます。
「まことに、まことにあなたがたに告げます。あなたがた私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」 26節
彼らはその前日、イエスの神性を証明する奇跡を目の当たりに体験しておきながら、イエスを人間のみとして扱う不信仰を指摘されています。この世のものに心を奪われてしまったままだと、永遠の事柄に気付く事ができなくなるのでしょうか?それとも気がついても直視するのは都合が悪いのでしょうか? そんな彼らにイエスは地上の事でなく天の事、つまり神の事に心を向けてその為に働くように促しておられ、そうする事でイエスから、永遠のいのちにに至る食物をいただけるのだと言われます。(27節)彼らがこの「食物」については理解していなかった事は読み進めばわかるのですが、「永遠の命」と言う言葉に反応して、「私たちが神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」と質問します。一般に、「技」とは目に見える行動を表す言葉なのですが、ここでは信仰を表した答えが返って来ます。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」29節
確かに信仰も心が信じる事を選択すると言う技だとも言えるのではないでしょうか。「神が遣わした者」とは勿論イエスご自身の事であり、ご自身がイスラエルが待ちわびて来ていたキリストである事を表しておられます。ところが、彼らにとっては「キリスト=政治的救い主=王になるべき」としか理解しなかったのか、これ以降の会話の中でイエスを説得する方向に向けようとしている事が読み取れます。「モーセのが毎日天からのパン(マナ)を民に与えた様に* あなたも同じ事をして見せる事ができますか?それなら信じます。」と言う内容の事を言ってのけます。前の日に体験したイエスの奇跡を何であったと言うのでしょうか?皮肉な矛盾した現象がここに見られます。人は神の奇跡を目の当たりにしても心を頑なにする事ができてしまうのです。
*出エジプト16:1〜5
エゴーエイミ
当然の事、イエスはこの様な誘導に動かされる事はなく、「いのちのパン」の話(上記)に入られます。この直後の流れが丁度、4章に出てくるイエスとサマリヤの女性との会話が鏡写しにエコーしているようです。彼女は「その不思議な水をください。」(4:15)と言う事を言いますが、彼らもまた「その不思議なパンをください。』と言うような事を言います。(34節)あの女性が物質的な水を連想した様に、彼らもまた物質的なパンをこの時点でも考えていたのですね。それに対するイエスの答えは、ご自身がその「パン」であると言う証言の上に、神の名前を名乗ったものでした。
日本語では「わたしが〜です」になっていますが(35節)、これはユダヤ人なら恐れおののくものであった「エゴーエイミ」の名を使ってご自身の神性を宣言されています。サマリヤの女性の時も同じ様にイエスはエゴーエイミを宣言されたのですが、その以前から自分を罪から救ってくださるキリストの到来を待ち望んでいた彼女のイエスへの反応は喜ばしいものでした。しかし、今回の群衆が待ち望んでいたものは政治的な救い主と理解した「キリスト」であったが為に、イエスが語られた真実を受け入れようとしない悲しい結末に向かいます。
適用:
私たちは、主イエスを「便利な王様」の様に接するのではなく、魂に永遠の命を与えてくださるいのちのパンであられる事をわきまえ、感謝と敬意を持って拝する事が大切ですね。
「ヨハネ伝の学び 6章22〜59節」への1件のフィードバック
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