イエスに与えられる人たち
「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者をわたしは決して捨てません。」 36〜37節
イエスはこんな内容の事を43、45、65節でも繰り返しておられます。神は義なる方であり、公正な方であり、全ての人の魂が救われる事を望んでおられる愛なる方で、神を心から求め捜し続ける人を、父なる神は必ずイエスの元に導いてくださいます。* 世界の数多い宗教を信仰している人々の中から、真剣に神を追求して来た末にイエスキリストに出会ってクリスチャンになったり、信仰を持つ事を迫害される国々の中にも真剣に神を求める人が不思議な神の導きや奇跡によってクリスチャンになると言う話は後を断ちません。**
*テモテ第一 2:4、エレミヤ29:13、申命記4:29、マタイ1:7、使徒17:24〜28
**(人々の証、宣教報告誌などより)
人間には自分で神を見つけ出す力はなく、神からの導きのみイエスと出会う事ができると言う事になります。クリスチャンの人なら、父なる神にイエスキリストの元に連れて来てもらった事に感謝できます。または、まだイエスの神性を理解できないなら、真剣に神を求め続ける事ができます。神は必ずその人をイエスの元に連れて行って下さり、イエスはその人を決して捨てたりしないと言っておられるのです。どんな過去があっても、心にどんなおもむきを持っていても、イエスは決して私たちを捨てることがないのです。これが神の無条件の愛なのです。神からの選びを理解し切れなくても、父なる神が自分をイエスキリストと出会える様に導いてくださったと言う事を単純に喜んで感謝できる事なのです。
イエスのポイント
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは霊であったり、またいのちなのです。」63節
この言葉の後ろには、「だからね〜」と言うニュアンスが聞こえて来ないでしょうか?「命のパンを食べる」とは、イエスの犠牲による救いを受け取ることを象徴した言い表しだと言う事を群衆が理解していなかったので、イエスはご自身の言葉は体の事を語っているのではなく、魂や霊の世界の事を語っているのであると説明されています。そして、イエスの言葉一つ一つに聖霊の力が働いている事も意味しているのです*。
* ヘブル4:12、ヨハネ1:1、ヨハネ6:68
続けて、5章で話された通り、ご自身が父の御心を行う為にこの世にこられた事、そして終わりの日にご自身の民をよみがえらせてくださるのだとここでも強調されます。(38〜39節)違う相手に話しているからとも言えますが、もっと奥から聞こえて来るニュアンスは、「人間の都合の良い王になる為にこの世に来たのではないよ。わたしはちゃんと父なる神からの使命を与えられてやって来たんだよ。」と言うものではないでしょうか? そこにいた多くの人たちがイエスを幼い時からみて来ていると言う事を楯に、彼が預言されて来たキリストである可能性を真剣に追求したくなかった様です。これらの事柄を一通り聞いていた人々の多くは、イエスの教えを受け入れる事を拒み、イエスから去って行ってしまいます。
ふるい
究極的な真実を突きつけられる時、人は二つのグループに分かれるものです。その真実が自分の都合に合わない場合は拒絶する人たちのグループが一つ。もう一つはその真実に正しく応答して神に立ち返ったり、一層近づいたりする人たちのグループです。真理がまるで人の心をふるいに掛けるかの様です。この時イエスには多くの人々が「弟子」と言う形で付き従っていましたが、多くの人たちは自分たちの魂の救い主と言う真のキリストを求めていたのではなくイエスを都合の良い様に使う事が動機だったのです。なので、この時点では彼らはイエスの語った真実によってふるいに掛けられて去って行ってしまいました。
ふるいに残った人たち
「弟子」だと自称していた多くの人たちが去って行きました。その頑なな心はイエスを深く悲しませた事でしょう。そしてここで12弟子に、彼らも離れたいと思うのかと尋ねられ、そこでペテロが代表して応答します。
「主よ。私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命のことばを持っておられます。 私たちはあなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」68〜69節
この言葉は、全てのイエスキリストを愛する人たちの心を表しているのではないでしょうか?どんなに理解できなくても、どんなに物事が思い通りに行かなくても、悲劇にあったとしても、それでイエスを離れてしまっても人には他に行き着く真理はありません。命のことばを与える事ができる者は、キリストであられる御子イエスの他には存在しないからです。*
* ヨハネ14:6、使徒4:12 等
イエスとユダ
6章の最後に小さく触れられているのはユダの事です。イエスはこの時点でやがてユダが自分を裏切ろうとしていた事を知っておられました。イエスは初めからユダが裏切る事を知っていても彼を弟子として選ばれていますが、神の予知能力が必ずしも人間の心や人間界の出来事に介入する訳ではない事がここでもわかります。この時、イエスはユダにペテロの言葉とご自身の言葉に注意を払って、悔い改めの機会を与えられていた故に、「そのうちの一人は悪魔です。」(70節)と、その場ではユダにしか解らない事を言われたのだと想像できます。
適用:
ふるいの中に残る事ができる魂とはどんな状態だと思いますか? 自分に都合の良い「神」を追い求める時、人はふるいから抜け落ちてしまう事になるのでしょう。ふるいから落ちた事に気がつけば直ぐ神に立ち返りましょう。神は何度でも拾い上げてくださる方です。神に主権を帰して、主の愛と憐みにすがる魂をイエス様は決して離さないと約束してくださっています。