カペナウムで群衆にご自身が「命のパン」であられる事を宣言された後(6章)、イエスはガリラヤ地方を巡っておられたと言う話で7章が始まります。ガリラヤ地方のナザレの町には、イエスが育たれた実家があったので、弟たちとの対話からもイエスが里帰りしていた(おそらく弟子たちを連れて)事が想像できます。時期は秋に行われる「仮庵の祭り」と言う七日間続く祝いの時が近づいていた頃でした。

イエスの兄弟たち

イエスを生んだ後、マリヤはヨセフとの間に子供たちに恵まれ、イエスには一緒に育った弟たちや妹たちがいたのですがいたようです。その弟たちが3〜5節でイエスに、エルサレムに行ってこの祭りの中でもっと自分が「キリスト」である事を売り込む様に促します。少なくともこの中の二名の兄弟が後にイエスの神性を信じるようになりますが**、この時は彼らにその信仰はなかったとの事です。

* マタイ13:55
** 使徒1:14、15:13、21:18、ガラテヤ2:9、ユダ1

想像できるでしょうか、イエスと共に子供の頃から兄弟として育つ事を? 罪の性質を持たないイエスは、子供の頃から人柄や言動が周囲の人とかけ離れて異なっていた事に兄弟たちは気がついていた事でしょう。 両親からもイエスの誕生の過程を聞かされ、彼が実にキリストである可能性を考えていたかも知れません。しかし当時の多くのイスラエル人と同じ様に、彼らも「キリスト」を政治的な救い主だと勘違いしていたのであれば、この兄弟たちの言葉の裏が見えそうです。エルサレムの宗教指導者たちがイエスをそのキリストだと認めてくれたら、立場上、自分たちにも境遇が良くなるとか、信じ易くなるとか思っていたでしょうか?。そう考えると、彼らがこの祭り時にエルサレムに出向こうとしないイエスにもどかしさを感じてプレッシャーをかけていたとも推測できます。あるいはその逆で、この兄弟たちがイエスをからかっていたのだと言う解釈も存在します。

イエスの「時」

6、8節で「わたしの時は来ていない」とイエスが語っておられますが、ここでは、少なくとも二つの事を重ねて言っておられる可能性があるのでは? 一つは、「彼らが思っている “政治的な救い主“ としてこの世に来るのはまだ先の事*だ」と言う事。もう一つは、「この祭りに出向くタイミングは父なる神が決める事だ」と言う事などが考えられます。

*イザヤ35章、40:9−11、52:7−10、 ダニエル2;44, 黙示録20 等

8節の「わたしはこの祭りには行きません。」と言う言葉に関しては、10節を読んで「嘘?」と言う疑問がでてきて自然でしょう。この箇所は「まだ行きません」と訳す原語の写本も存在していていますが、いずれにせよ翻訳しきれていない原語のニュアンスがあるとも考えられます。そんな場合はその言葉の背景とその他の場所で表れているイエスの神聖や人格をから結論を出す事が必要です。以前にイエスは、ご自身が父なる神の御心以外には何も行動に起こす事はないと言う内容の事を語られたのを勉強しましたが(5章19、20、30節)このシーンはその事が形となって実現している一つで、イエスが父なる神のタイミングで行く事、また「公には行かない」と意味した事などが考えられます。

世に憎まれない vs 憎まれる

「世はあなたを憎む事はできません。(7節)こう言われてしまうと言う事は逆に、その人が神のタイミングで動く人ではないと言われているので、良い意味ではない事になります。7節の言葉の裏にも、イエスは神に着く人間とこの世に着く人間の格差を語っておられます。神に従って生きる人物なら、いつ何をするのも神の御心を求めると言う生き方を追います(挫けたりつまづいたりもしますが)。しかしこの世に着く人は、この世に調子を合わせているかぎり一般的にはこの世はその人の行動に関与しません。これはどの時代でもそうではないでしょうか?「この世の君主」すなわち悪魔は、真実を追い求める事なくこの世の流れに素直に身を任せる人物を憎む事はできないと。そして「この世の君』は真理であられるイエスを憎んでいる**と言っておられます。

*ローマ 12:2 
**エペソ 2:1−2
***ヨハネ14:30

内密に行かれたイエス

8〜9節で、イエスが弟たちを送り出し、時間を置いてから祭りに出向いて行かれたとあります。そして、公ではなく内密に行かれたとの事です。エルサレムの神殿に行くとイエスはいつもなら教える立場になっておられたのですが、宮に入った始めの何日かは身を低くして群衆の中に身を隠しておられたと推測できます。宮にいた人たちの多くはイエスが気になっていて、「良い人」だの「惑わす者」だのヒソヒソと噂しながら彼を探していましたが、指導者たちを恐れて公然と彼の話ができなかったと言う事でした(11〜13節)。

そして公に

しかし、イエスはお祭りの中頃から人の前に現れて、神の言葉を教え始められます。そして人々は無学の筈のイエスの知識と知恵に驚いていたのでした。それに対してイエスは、その教えはご自身を遣わされた父なる神直々の教えなのだと言う事、自分自身から語る人物は自分の栄光を追い求め、神から遣わされて語る者は神の栄光を求めて真実を語るのだと言う事、そして神の御心を願う人は誰でもイエスの教えがそのどちらであるかが分かるのだ言う事を語られます。(14〜18節より)

殺意を指摘

因みに、前回イエスがエルサレムにおられた時に38年の間病気で伏せっていた男性を癒された出来事(5章)の後、「安息日に癒すという仕事をした」と言って指導者たちが言いががりをつけていましたが、その時のイエスの返答に更に腹を立てた彼らはイエスに対する殺意を抱く様になっていました。イエスはそんな指導者たちがいるエルサレムに戻って来られていたです。

イエスはご自身の教えに関して話しておられたかと思うといきなり指導者たちを告発され出します。彼らはモーセの律法を守っている様に見せかけて、律法など心に止めるどころかキリストに関する真実を求めずにご自身を殺そうと企んでいる事を指摘されます(19節)。

これに関して20節の彼らの返答には、見抜かれた時のパニックを伺う事ができないでしょうか? とっさに出て来た言葉の「あなたは悪霊につかれています。」は、現代風には「気違い染みた事を言うんじゃねーよ。」と言うニュアンスがあったと思えます。そして「誰があなたを殺そうとしているのですか」と付け加えて否定しています。

癒すことの正統性

21〜24節でイエスは、彼らの殺意に繋がった前回の出来事の正統性を語られます。神が人の心体の休息のために意図した安息日に関して、指導者たちは長い年月に渡って、禁止されている「働く事」に細かい定義を付け足し、その水準でお互いを裁き合う事が文化になってしまっていた訳です。しかし人の体に割礼を施す儀式は、神がモーセを通して定めた通り、安息日に行われます。彼らの標準で進むのであれば、割礼を施す事も受ける事も「働く」になるけれども、その件に関しては、律法そのものだったので当然うるさく言われませんでした。

「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」23節

24節でイエスは、付け足された文化を闇雲に受け入れる事がうわべだけの「宗教」になっている事と、イエスの表面上の言動がその文化に沿わないと言って、彼らは神の意図した安息日を知ろうとせずに間違った裁きを下しているのだと指摘しておられます。

適用:

  1. あなたは、この世の流れに身を任せるのではなく、真理であられるイエスに日々従いたいと願いますか?
  2. あなたの周りに、「聖書の教え」として受け止めていた事が、実のところ文化的なものであったと言う例はありますか?