人々が密かに探していたイエスが、祭りの週の途中から姿を現して人々の前で再び教え出された事を前回学びました。そこにいた群衆は指導者たちが以前からイエスの命を狙っていた事を知っていたのですが、こんなに堂々を宮で教えるイエスを誰も捕らえようとしないのかが不思議でした。なので、どこかの時点でイエスがキリストであると認められたのかと考えていたようです。(25〜26節)
人々の混乱
しかし、一部の人たちはそうである可能性を払い除けるかのように、「キリストがくる時、誰も何処から来たのか知らない筈だけど、私たちはこのイエスが何処から来たのか知っている。それ故イエスはキリストではない。」と言うスタンスをとります(27節)。この彼らの概念は、恐らく「キリストは神殿に突然現れる」と言うマラキ書 3:1の内容から、その「突然来る」=「何処から来るか分からない」になってしまっていたと言う説もあります。いずれにしてもこの概念は彼らが預言を学んでいなかった事を表しています。なぜならキリストがベツレヘムから出る事が古くから預言されているので(ミカ書 5:2)、少なくとも出身地は明らかになっていた筈なのです。それに伴い、イエスがガリラヤ地方に長く住まわれた事で、彼をガリラヤ生まれだと決めつけていた事も問題の種でした。
彼らがコソコソと話していた事をイエスは大声で繰り返すかの様に言われます。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たのかも知っています。」(28〜29節)この前半の言葉は、例のコソコソ話をエコーされていたのでしょうか? 続いてイエスは「そう思っているみたいだけれども、あなた方はわたしを遣わした方を知らない。つまり、わたしが何処から来たのか本当には知らない。」と言う意味の事を言われます。この人たちは「あなたは神を知らない」と言われているので面白くなく、イエスを捕らえようと試みるのですが(30節)、神が定めた十字架の時はまだ来ていなかったので実行に至らなかったのです。
イエスの言葉で信じる
喜ばしい事に、純粋にイエスに信仰を持った人たちも多くいたのです。彼らに取っては、イエスが語ることばや示すしるし(奇跡)が十分に彼らを納得させたのでした(31節)。それにしてもこの人たちは、御子イエスご自身を目の前に、彼の語る言葉を聞き、行われる奇跡を見て信じたのです。すごい事ではないでしょうか? 大方は、旧約の時代から神を愛しキリストを待ち望む姿勢であったり、新約の時代には使徒たちの言葉や聖書や教会で聞く言葉で信じる事が魂の救いの経路です。しかしこの箇所の様に御子イエス直々の言葉で信仰を持つ事ができたこの時代の人たちの救いはそれこそ衝撃的であった事でしょう!
役人たちが遣わされる
多くの人たちがイエスを信じた事はパリサイ人たちを焦らせたのでしょう。イエスを逮捕させようと、役人たちを(神殿警察/ 兵隊)遣わした事が32節に書かれていますが、読みすすむとどうも彼らはイエスに手をかける事なく、群衆と共に話を聞き入っていた事が推測できます。
やって来た役人たちを見てイエスは、後に来ようとしていた十字架を思われたのかも知れません。その場でイエスは、もうしばらくするとご自身がこの地上から居なくなる事、そして父なる神のもとに戻られる事を預言されますが(33〜34節)、人々にはイエスの言葉の意味が理解できず、イエスが他所の地に行って伝道するつもりなのかと考え込みます。(35〜36節)
生ける水の川
37節では祭りの最後の日でとても盛り上がる日に変わっています。この日は、モーセが岩を杖で叩いて水を出し、それが川となって荒野にいたイスラエルの民を潤した時の事を記念した行事を行う日でした(出エジプト17:5〜6、レビ記23:33〜43)。神殿の中でそれを記念するために水を流すと言う行事です。この日、イエスは大声で言われたと書かれています。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」37〜38節
当然の事、物質的な水の話ではありません。このコンセプトは4章のサマリヤの女性の話にも出てきましたね。神を知らない人間の魂が渇いているのであれば、神の御子であられるイエスを信じてイエスの元に来るなら、その魂を生かす命の水を与えてくださると言っておられます。「聖書が言っているとおり」とは勿論、旧約聖書の事で、いくつかの聖句が神を「魂に命を与える水」であると言うコンセプトを語っています。(イザヤ44:3、55:1、58:11、エレミヤ17:13等)39節にある様に、イエスを信じて受け入れる時、聖霊がその人の心に宿ってくださいます。聖霊との交わりは状況を超えた喜びとなり、その喜びが泉の様に心の奥から溢れ出るのをその人は感じる事ができるのです。イエスはこの日「大声で」ご自身のところに来なさいと人々に呼びかけられました。それは、人々を愛する神が必死になって呼びかけられている姿なのではないでしょうか?
反応
これを聞いた人々の反応は現代とも同様で様々です。ある人々はイエスを「あの預言者だ」と言いました(40節)。申命記18:15、18でやがて現れると預言されている「預言者」の事を指しているのですが、実はそれこそ正にキリストの預言なのです。しかし、当時の人々はこの預言者をキリストとは別の存在と理解している人も多かった様です。その一方、喜ばしいことにこの日、新たにイエスをキリストであると悟った人々もいたのです(41節)。
信じない人たちの中には出身地の事が再び持ち出されています(41〜42節)。これに関しても追求さえすれば、イエスがガリラヤで生まれたのではなく、預言の通りベツレヘムで生まれておられた事が判明した筈なのです。それは、神は真実、真理を求める人に必ずそれを示してくださると約束されているからです。(エレミヤ29:13、使徒17:26〜27)
こうやって、群衆の中に分裂が起きます。イエスが誰であるかの問題よりも、とにかくイエスを捕らえたいと願う人までいたのです。(43〜44節)心地良い日常をかき乱される様な気持ちになったのかも知れません。私たちは皆、真実と向かい合うよりかは心地良さを選んでしまう事があるのではないでしょうか?
パリサイ人たちが支離滅裂?
前日にイエスを逮捕するために遣わされた役人たちがそれを実行せずに戻ってきた時、役人たちの言い分は、イエスが並大抵の話し手ではないと言う事でした。それに対して彼らは、イエスを信じるのは無学な奴らだけで、自分たち宗教指導者たちの間でイエスを信じる奴はいない、と言い除けます。ところがその直後に都合悪く、3章で登場したパリサイ人であるニコデモが、イエスを弁護しようとします(50〜51節)。ニコデモは一人で彼らに対抗しています。しかも、正当な律法を持ち出します。少なくともここに一人真面にイエスを信じているパリサイ人がいたのです。彼は、先にイエスの話を聞いてから逮捕するかを考えるべきだと弁論します。彼らの反論はまたまたここでも出身地に関してでした(52節)。いずれにしても、彼らは、議題となっている事柄を対処していません。どちらかと言うと感情的になって権力を使って威圧する方法しか残っておらず、支離滅裂になっていたと考えられます。
適用
あなたがもし、まだイエスキリストを自分の神として受け入れていないのであれば、「生ける命の水」を受け取りたいと願いますか? そうであれば、そのままの気持ちを神に語ってください。それだけでイエスの元に行けるのです。