この箇所の信憑性

大抵の聖書には7章最後の53節から8章の11節までがカッコで囲まれていてアステリスク(*)が付いていたりします。説明を読むと、なんと「古い写本にはこの部分は載せられていない」と書いています。少し心配にさせる点なので、分析する所から始めますが、興味がなければ本題にスキップして下さい。

写本とは手書きで写して出来上がった書物を指し、原本が見つからない場合は、いつも一番古いと判断された写本と、それと同じ写本が何冊あるかでその記録書物の信憑性が測られます。そこへ来て、見つかった中で一番古い写本がこの箇所を含んでいないと言うのです。

この出来事自体が本当に起きたと事とされている根拠の一つは、写本が書かれていた時代の年月の中、この記事が聖書の別の場所に移すと読み易いと考えられて動かされたバージョンがあって、それで、二通りの記録ができてしまったとも考えられています。その他に、西暦100年あたりの一人の司教がこの箇所の出来事を語った事が記録されています。* ヨハネが福音書を書いたのが西暦50〜85年の間と推測されてるので、その例の司教はおそらく、この15〜50年後あたりに存在していて、かつ今では見つかっていない原本かそれに近い頃の写本から学んだと考えられます。いづれにしてもこの箇所に出てくるイエスの言動は聖書の語る真理に基づいている事から実話として捉えるに値いします。エレミヤ書の預言から考えても(下記参照)、7章の出来事のすぐ後だと思われることから、そこの場所で正しいのだと考えられます。

*Bible Odyssey (URL)“Manuscript History of John 8:1~8:11”
** BSF International “Study of John – Lessen 14 , Series IV” Copyright 2002

− 本題 −

背景

この出来事の前の日は仮庵の祭りの最後の日でした。イエスが宮でご自身が「命の水」であると証しされて、またしてもそこで人々の意見が分かれて騒ぎになった事が7章の終わりに書かれています。(前回の学びを参照)その後人々が解散してからイエスはオリーブ山へ行かれ、そこで夜を明かされたかも知れません。そして次の朝早くから宮に戻られ人々を教えておられる場面からこの話は始まります。(1節)

偽善

そこへ宗教指導者達によって、イエスの前に連れて来られたのは一人の姦淫の場で囚われてしまった女性です。まず不自然なのは「朝早く」と言う事です。彼らは以前から把握していた姦淫の状況を使ってイエスを落とし入れようと、この女性を捕らえる計画していた風に思えます。姦淫の場なら男性もいた筈ですが、連れて来られたのはこの女性だけです。もしこの指導者達に誠実さがあったなら、この姦淫の二人に以前から警告したり働きかけたりしていたのではないでしょうか? しかも男性の方は見逃してもらえている(もしくは彼もグルだった?)所に男尊女卑の醜さも露わです。彼らがしていた事は、イエスを落とし入れる事を目的に神の律法とこの女性を利用した偽善的な行為だったのです。(2〜3節)

律法では?

さて、旧約聖書には多くの神からの律法が記されています。(出エジプト〜申命記)神が人間に啓示した道徳基準は果てしなく高いもので、人間にはそれを守る聖さはありません。神が人間から望まれるものは、律法を少しでも守ろうとする心と罪の悔い改める心だったのです。* 律法が与えられた初代のイスラエルではこの標準を人々の心に刻み込む目的も含めて白黒ハッキリさせた処置が取られる事が必要だったようで、進んで罪を犯す人物にはその報酬が実行されていたケースも律法の書の中に記録されています。覚えておくべき事は、当時にそんな形で処罰を受けてこの世を去った人たちでも、誠意を持って悔いて神に赦しを求めていたのであれば、その人の魂は救われていたと言う事です。

*詩51:16〜17

偽善者達の要望

「モーセの律法では、この様な罪を犯した女は石打ちの刑に値する。* さあイエス殿、あなたは何という?」と言う内容の質問を彼らはイエスに突きつけます。イエスが「大目に見るべき」と言えば、「イエスが律法を軽んじた」と非難する事ができ、「石打ちだ」と答えれば、「何と酷い事を。」と非難する事ができます。彼らは、これでイエスに逃げ道はない、イエスを告発する事ができると確信していたのです。完璧な計画だとウキウキしていた事でしょう。(4〜5節)

*レビ記 20:10

イエスの反応

イエスはしばらくの間、彼らに反応せず、地面に何か書いておられましたが、彼らがしつこくイエスに答えを要求した末に立ち上がって言われます。

「あなた方のうちで罪の無い者が最初に彼女に石を投げなさい。」7節

なんと天才的な答えでしょうか。イエスは「Yes」でも「No」でもなく、この偽善者達のうちの一人として、この女性を罰する資格を持っていない事実を彼らに突き返したのです。それ故、彼らは一人として「自分には罪はありません」と言うことができず、それを恥じて、一緒に去って行くのではなく、一人一人別々に去って行ったのです。(6〜9節)

イエスの憐みと正しさ

そこに残ったのはイエスとその女性(とおそらく弟子達)でした。彼女を罰する資格があったのは神の御子であられたイエスご自身だったのですが、イエスは彼女に憐み深く、「私もあなたを罪に定めない」と言われます。それは、イエスがこの世に来られた目的は救いの道を持たらすためであって*、人類を裁かれる時はまだ来ていないからです。

*ルカ19:10

しかし、憐れみと同時にイエスはこの女性から誠意を要求されます。赦されたのであれば、再び同じ罪を犯してはならないと警告されたのです。(9〜11節)

地面に何を?

イエスが黙って地面に書かれていたものは何だったのか? 今となっては確実に知ることはできないのですが、一つの推測の流れがあります。それはエレミヤ書に出てくる預言の成就ではないかと言うものです。 

 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は恥を見ます。『わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。命の水の泉、主を捨てたからだ。』」

エレミヤ17:13

この場の指導者達は律法やキリストに関して多くの知識を与えられていました。なので彼らには、誠実さを持ってこれらとイエスの言動を照らし合わせて、真剣に吟味する事を神から要求されていた事になります。* 前日にイエスがご自身が「命の水」であられる事を語られ、キリストであられる事をハッキリと表現しておられた(前回の学びを参照)事を検討するどころかイエスを憎み、この様な偽善的な罠を仕掛けたのです。そして実際にこの人たちは恥を見ながら帰って行きました。彼らはエレミヤが言う、「神を捨てる者、命の水の泉を捨てる者」と神から確定されたのではないでしょうか? 御子イエスが地面に書いておられたのは、偽善者である彼ら一人一人の名前だったと考えると、エレミヤの預言がこの箇所にぴったりはまっていると言うのが説です。

*ルカ12:48

「軽い」生き方

砂に書かれた名前はもろく、ほんの少しの刺激を受けても崩れてしまいます。そんな描写に似せて、聖書の中で、神を捨て切った人の人生をもろい物、重みのない物、価値の無い物、過ぎ去ってしまう物 - 砂、草、もみがら等にに例えている箇所* がこの他にも多くあります。その生き方が重みの無い、「軽い」もの - 神から軽んじられるものとして表現されていたりします。真理というものを吟味しない心で興味さえも持たずに刹那的に生きる事は、神から見るとあまりにも軽率で、自身の魂の行き先を重んじない生き方なのです。

*I サムエル2:30、ダニエル署5:27、イザヤ40:8、ヨブ21:17〜18、38:27、詩篇37:2、マタイ7:26、他多数

適用:

あなたの人生は砂の上に建てられているものですか? それともイエスキリストと言う岩の土台に建てられているものだと言えますか?(マタイ7:24〜27より)