「イエスはまた彼らに語って言われた。」と12節から続いています。前回の姦淫の場で捕らえられた女性のエピソードから続く様ですが、去って行った筈のパリサイ人たちがまた居るので、これはまた別の日であったと思えます。仮庵の祭りが終わった後もイエスは神殿を出入りしては人々に語っておられた様です。次の言葉の中でも更にご自身の神性を表しておられます。

「わたしは世の光です。わたしに従うものは決して闇の中を歩む事がなく、いのちの光を持つのです。」12節

この言葉は、単に人間の教師であったなら正気で言えるものではありません。「わたしは光を知っている」ではなく、ご自身が光そのものだと言っておられます。その上、ここの「わたしは〜です。」の原語は、またしてもあの「エゴーエイミーであり、 イエスはご自身の神性の宣言を重ねておられます。

また、「イエスに従う者」とは、イエスの言葉を信じてそれに従って生きると言う事で、その人物は「命の光を持つ」のだと言われます。光と言うものはその人の視界を照らして、それまで理解できなかった事柄を理解し、自分の位置や歩くべき方向を明らかにしてくれます。また、光は喜びや希望にも例えられます。神の子供とされる時、その人の心には真理と喜びと希望、そして生きる意味が与えられるのです。もし、命を授かってこの世を生きていく人物が神に出会わないままだと、その人は絶望や虚無感、死への恐れ等の暗闇をいつも背景に生きている状態にあります*。神に出会う時、聖霊がその人の人生の光となってくださるので、クリスチャンになる時から「命の光」であられるイエスを体験する事ができるのです。

*伝道者の書


13節からのイエスとパリサイ人達のやりとりは、5章で読んだことのフラッシュバックの様です。なので5章の投稿と同じ様に、ポイント式にまとめます。

真実な証言について

イエスがご自身を神であり、キリストであると自称されているところから、パリサイ人達は「自分で言っているだけだから、その証言は真実ではない。」と論じます。(13節)ここでは、イエスは「自分はどこから来てどこへ行くのか知っているのだから、自身の証言は真実だ。」と語られます。(14節) 一瞬、5章31節と矛盾しているのかと思えますが、5章ではイエスは「もしわたしだけが証言するなら」と言われているので矛盾はしていません。どちらの場面でもそれぞれの言葉の後に、父なる神が共に証言しておられている事を続けて語っておられます。この章では17〜18節でそれを語っておられます。* (詳しい解説は5章31-47に関する学びを参照ください。)

*8章17〜18節、5章31〜32、37〜38

*イエスがどこへ行くのかを彼らは知らない事

14節の後半で、イエスは「しかし、あなた方は、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」と続けて言われます。ナザレから来たと認識していても、元々イエスが父なる神からこの世に遣わされた事を彼は悟ろうとしません。またこの後、イエスは十字架、よみがえりと昇天と言う道を歩まれようとしていた事も彼らは想像すらしていませんでした。7:33〜43節の学びをも参照ください。)

*肉による裁きと御子イエスの裁き

イエスはまた、彼らが「肉によって裁いている」と言われています。(15節) 聖霊によって裁く事に対比して、肉によって裁くとは、どんな感じでしょうか?

人間の下す裁き、或いは判断はどんなに公正を試みても限られた知識の元であり、悪い場合は自己中心的に自身の理想や望みに加担した判断によっての裁きになってしまいます*。神からの知識や助けがない限り、そんな風に「肉によって」裁くのだとイエスは言っておられます。イエスを神と信じる事、キリストだと認める事は、地位や名誉を追い求めていた彼らには都合の悪い事だったので、彼らはイエスの証言を真実でないと言い固める方向に判断していたと言えます。

*第二テモテ4:3

そこへ来て、神の御子であられるイエスの判断、裁きは完全な知識と正しさのもとでなされ、それはご自身が父なる神と共に裁かれるからだと言っておられます。人類が一人ひとり神の前に裁かれる時がいつか来ます*。しかし、イエスが人となってこの世に来られた第一の目的はその時に罪の報いから人々を救う道を開く為だったので**、この時点では「誰をも裁かない」のだど言っておられるのです。(15〜16節)

*第二コリント5:10、使徒17:31、ヘブル9:27、伝道者12:14、ヨハネ12:48、マタイ12:36、他多数
**ルカ19:10

*御子イエスを知る=神を知る

「あなたの父はどこにいるのですか?」(19節)このパリサイ人達の言葉は、紛れもなく白を切っていたものです。イエスがこれまでも何度も神をご自身の父と呼んできておられたのですから、わかっていた筈です。ここでの彼らのこの質問から察する事ができるのは、それを理解しつつイエスを馬鹿にしていたか、別の答えを言わせたかったか、もしくは「神が自分の父」だと言葉にさせて「冒涜」と定めたかったのか、等が想像できます。

それに対してのイエスの答えは、彼らがどんな動機で質問しているかを知っておられ、「答えを言葉にするに値しない相手」だと見切ったフシがないでしょうか? 真理を求めていない彼らに向かって、所詮彼らはご自身をも父なる神をも知らない事、またご自身を知ることは神を知ることだと言われます。*(19節) これらの事を語られていた場所は「献金箱のある所」で、イエスの言葉はその壁のすぐ向こう側にいたサンヘドリン(70人のユダヤ教長老たちの集まる議会)に筒抜けで聞こえる状態でした。それでも神の時が来ていなかったので、彼らはイエスを捕らえる事はできませんでした。(20節)

*ヨハネ14:9

改心のチャンス (21〜29節を要約)

この頃、イエスはご自身の地上での生涯が終わりに近づいている事をご存知でした。翌年の過越の祭りの時に十字架に掛けられる事を背景に、目の前にいたパリサイ人達に深刻な警告を促されます。イエスが十字架で死なれた直後に、イエスが明らかに神の御子であられた事を衝撃的に示す現象がいくつか起こります*。次の春に起ころうとしているそれらの事を背景にイエスは、その日には彼らはそれまで話していたイエスの言葉が真実であった事を悟るのだと言われます。ただ、「真実を悟る」事が自動的に「神に立ち返る」事になる訳ではない事も悲しい事実です。人は神が居る証拠を見せられても必ず改心する訳ではないのです**。「あなたの父は誰ですか」とか「あなたは誰ですか」と何度も白を切り、悟る事を拒む彼らが、神の裁きの日にはイエスの言っていた救いを求める意味で「イエスを探す」のですが、イエスの御国に入る事はできなくなります。罪の赦しのないまま「罪の中に死ぬ」、待っているのは地獄だよとイエスは警告されます。

*マタイ27:45〜54 、 28:11〜15 **ヨハネ11:38〜48、マタイ28:11〜15

多くの知識や証拠を与えられる時、その人物にはそれなりの責任も要求されます*。イエスを目の当たりにしているその時に改心しないなら、御子イエスは裁きの座につかれる時には、彼らに対する御子イエスからの告発も多くなるのだと語っておられます。 これはイエスが彼らに、今が改心する最後のチャンスだよと警告されています。

*ルカ12:48

多くが信じた

神と言う立場で彼らを愛しておられたイエスは、パリサイ人達への最後の呼び掛けをしておられたのでしょうか? しかし、彼らは心を頑なにします。その反面、その場でイエスの話を聞いていた多くの人がイエスを信じたのだとも書かれています。(30節)これは、神を心から求めていた人たちが真実を目の当たりにした時に誠意ある応答をしたと言う事がわかります。丁度、同じ太陽が雪を溶かす反面、粘土を堅くするのに似て、真理が心に示される時、そこには「中立」と言う選択は残されず*、人は改心するか心を頑なにするかのどちらかを選択する事になるのです。

*マタイ12:30

適用:

真理が心に示される時、神から逃げるのではなく、神の愛と救いの手の中に駆け込む事を選ぶ事が私たちにはできるのです。

「ヨハネ伝の学び 8章12〜30」への1件のフィードバック

コメントは受け付けていません。