舞台は前回に引き続きエルサレムの神殿にてイエスのユダヤ人達とのやりとりです。「真理はあなたがたを自由にします。」(32節)と言うイエスのことばへの反論から始まりますが、今回も要訳の形になります。
彼らは「自由」?(33〜36節)
「自由」という言葉に対して侮辱されたと受け取ったのでしょうか? 彼らは異邦人達を「不品行の元に生まれた者」とし、自分たちをアブラハムの子孫で「本妻の子」と例えてまで(41節)神の民である事を主張します。因みに彼らが「誰の奴隷になった事もない」とする主張は根拠に欠けています。古くからイスラエルはあちらこちらの国から奴隷にされていたし*、この時代でもローマ帝国に弾圧されていたからです。イスラエル人なら誰もが知っていた筈なのですが、とにかくイエスに反論しようとしたのか、無知で高ぶった発言になっていました。
*出エジプト記、Ⅱ列王記17章、25章、
その一方、イエスが語っておられた「自由」とは、前回の投稿で学んだように政治的な意味を持ったものではありませんでした。「イスラエルの血筋=神の民」というスタンスで神やアブラハムが自分たちの父だと主張する彼らに、イエスは彼らが神の民どころか罪の奴隷であり、しもべと息子の例えを通して、滅びていく彼らを自由にできるのは神の御子で永遠にあられるご自身のみであると言う内容を話されます。
石ころでも血筋になれる(37〜40節)
血筋上のアブラハムの子孫なら、神は石コロからでも起こす事ができるのだと、バプテスマのヨハネがユダヤ人達に警告した記事がマタイ3章に記録されています。同じくイエスご自身もここで、血筋だけでは神の民とされるアブラハムの子孫とは認められないと言う事を語られます。神やアブラハムが彼らの父であるならアブラハムのわざを行う ー つまりイエスを喜ぶ (56節) ー であって、彼らはそれに程遠く、ご自身を殺そうとまでしていると数分後の出来事を予告されているようです。
ルカ3:7〜9、ローマ2:28〜29
神のことばが入らない心 (37節後半)
また、彼らがイエスを殺そうとするのはご自身のことばが彼らのうちに入っていかないからだと続けられます。別の訳し方ではイエスのことばが「根をおろしていない」と意味するそうです。* イエスをキリストだと認める事は彼らにとってあらゆる面で都合が悪かったのでしょう。彼らはイエスがこれまでずっと語って来られたことばを受け入れようとはしません。それどころか、なんとかイエスにそうである可能性を否定させようと誘導を試みる姿勢を福音書の中で度々見受ける事ができるのです。実際この場の対話でも彼らはそれを試みています。(下記) その様な心の中では神のことばが根をはる事はないのでしょう。
*マタイ13章
イエスの父と彼らの父 (38〜47節)
アブラハムの子孫と言うステータスが自慢だった彼らに、イエスは信仰の無い彼らは神どころかアブラハムをも父としていない、それどころか彼らの父は悪魔であると告げられます。現にこの時も彼らはその父の悪魔に誘導されているのだと言うことです。イエスの仇を何一つ見つけられなかったにも関わらず、イエスの語られる真理を拒み。神のことばを聞こうとせず、悪魔の技を行っていると言われています。人は神を拒絶する時点より、意識することなく益々悪魔の思う壺になっていくと言う事でしょう。
*創世記3:1〜5、ヨハネ10:10 、Ⅱコリント4:3〜4、11:3、エペソ6:11〜16、Ⅰペテロ5:8〜9、他多数
誘導 ー イエスに言わせたかった事 (48〜57節)
彼らはイエスの事を「悪霊につかれているサマリヤ人」だと言い出しました。サマリヤと言う地に住む民族はイスラエル人と異邦人の混血の民が住む土地で、宗教上の異端の教えが混じった文化や教えが有った地方でした。(4章1〜18節の学びを参照) 彼らはイエスの本当の出身地を問わずに「異端を教える人=サマリヤ人」と言う代名詞として表現し、「悪霊につかれている」と言う形容詞を添えた暴言をイエスに投げ付けていたのです。それに関してはイエスは単純に否定されていますね。それはご自身が父を敬っておられる事と、その父なる神がイエスを立証してくださると確信しておられるからです。
イエスは怯む事なく続けられます。この言葉はその場を去る前の最後の招きだったかも知れません。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばをを守るならば、その人は決して死を見る事がありません。」51節
その人の魂が永遠に生きる事を語っておられたのです。ここでも彼らはイエスの言葉に対して、「ほらやっぱり悪霊につかれてる」だの、「お前は死んでいったアブラハムや預言者たちよりも偉いとでも言うのか、一体何様だと思っているのだ」と再び例の「誘導」を試みます。彼らは余程イエスの口から、ご自身が神でもキリストでもないと言わせたかったのでしょう。イエスは彼らの計らいに乗せられる事なく、彼らがイエスを敬わなくても父なる神がご自身を立証してくださる事をもう一度強調されます。しかしどんなに真理を語られても、イエスが「偽りの父の子供」と呼ばれた彼らは、それらを受け入れる事はできなかったのです。
エゴーエイミ (55〜59節)
イエスは、彼らが父なる神を知らないがご自身は知っていてアブラハムをも知っていたと語られます。彼らの反論は「50年もこの世で生きていない者が大昔に生きたアブラハムを知っている筈がない」と言うものでした。イエスは答えられます。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです。」58節
この時から2000年以上前にもすでにご自身が存在しておられたと言う意味だけでも確かにイエスの神性を仄めかしている発言です。でもこの発言の重点は語尾の「わたしはいる」の原語が他でもなく「エゴーエイミ」だと言うところにあります。自分たちの思う方向へイエスのことばを誘導しようと努力していた彼らはとうとう、永遠に自らの力で存在されている神の名前と衝突する事になったのです。彼らの怒りの原因はこの「エゴーエイミ」をイエスが発した事が冒涜の罪に当たるとした事にあったのです。
数分前にイエスが予告された通り、彼らはその場でイエスを石打ちにして殺そうとします。ですが、再びイエスはその場をすり抜けてしまわれます。宮から出ていかれたイエスの心は嘆きに満ちていた事が想像できます。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
マタイ23:37