生まれつき盲目の男性がイエスによって癒され、目が見える様になったと聞かされたパリサイ人たちはそれを喜んであげようとはせず、ただ一心にイエスが神の力でそうした事を否定しようと努力します。まず癒された本人が否定しなかったので、この男性の信頼性を否定しようと、彼の両親を呼んで彼が元々盲目であった事事態を否定させようと動きます。ところが両親は「盲目だったけど、どうやって見えるようになったかは知りません。彼は大人なんだから彼に聞いてちょうだい」と、ややこしい状況を逃れるための発言をするところまでが前回の話のあらすじです。
不都合な男 (24〜34節)
そんな流れでこの男性は再び呼び出されるのですが、ここからが見ものです。パリサイ人たちは「イエスを罪人だと宣言して神に栄光を帰せよ。」と言う事を言って圧力をかけます。しかし、男性は自分に正直な人ですね。「罪人かどうかは知らない。しかし自分の目が開かれたのは確かに知っている。」と言う返事をします。うまくこの男性を操れない彼らは、その糸口を探そうとしていたのでしょう。彼に再び目が開かれたプロセスを説明しろと要求します。
「なぜ同じ事を聞くのですか?あなた方もあの方の弟子になりたいのですか?」この男性には指導者たちの顔色を伺うかげりはなく、自分の答えを聞こうとせずに逆に不当な圧力をかけてくる彼らを相手に妥当な苛立ちを持った皮肉を投げ返します。
これに対して指導者たちは、「私たちは神がモーセにお話になった事は知っている。しかしあの者(イエス)についてはどこから来たのか知らないのだ。」と討論します。因みに、モーセの言葉を真剣に受けとめていたならモーセによるキリストに関する預言*ももっと真剣に追っていただろうし、安息日に癒す事を咎める律法など無いと言うことも分かるはずではないでしょうか? モーセと言う人物の名を使い自分たちにとって都合のいい宗教システムを保っていた彼らにとっては、実際にキリストが現れるのは好ましい事ではなかったと言う事でしょうか? それ故、この男性の単純に真実を追っている姿に苛立ち、それを揉み潰そうとしているようです。
*申命記18:15〜19、民数記12:6〜8
強い社会的な圧力がかかっていましたが、この男性は自分を欺く事をしませんでした。それよりも、指導者たちが「どこから来たか知らない」と言っている人物が生まれつき盲目の自分の目を開いた事が彼にとって「驚きだ」と返します。その上、彼はまた正しい神学を信じていました。それは、「誰でも神を敬いその御心を行うなら神はその人の言う事を聞いてくださる。イエスが罪人であったならこの様な奇跡を行う事はできない筈である」と言うもので、旧約聖書の中で支持されているものです。* この発言はパリサイ人たちの怒りを引き起こします。男性が圧力や誘導に応じないだけか、事もあろうに自分たちに「説教した」と言う事に怒ります。彼らは例の迷信(前回の投稿)を現実化して、この男性が罪を持って生まれて来た身であって指導者たちに教える立場では無いと返します。おそらく怒鳴っていたのではないでしょうか? 挙げ句の果て、彼らはこのどうにもならない不都合な男を神殿から追放します。
*ヨブ記27:9、詩篇34:15、66:18、エゼキエル8:18
彼を捜し出すイエス (35節)
始めはイエスが誰だか分からなかったこの男性は、自分に偽らずに自身の知っているかぎりの真実にしがみつくと、なんともう一つ次の真実が目の前にあり、それにまたしがみつく ― そんな風に、イエスが神から来られたお方であると言う確信に辿り着きました。人の意見や圧力に負けずに真実を追い続けました。神はこの様な求道心を見捨てる事は決してなさいません。* 宮から追い出された男性をイエスの方から見つけ出し、彼に語られたのです。
*マタイ10:32、18:12
信仰告白 (35〜38節)
「あなたは人の子を信じますか?」(35節) 「人の子」と言う言葉は預言されて来たキリストの事を指しているとこの男性は察したようです。そしてあの日自分の目を開いたあの人物こそがキリストであったと察知したのが彼の返答でわかります。「その方をこの目で一目見て拝したい。」と言うものでした。聖霊が彼の心に一瞬のうちに働いてくださり、今度は心の目が開かれたのでした。イエスは「あなたと話しているのがそれです。」(37節)と答え、男性は「主よ、私は信じます。」と言ってイエスを拝するに至ったのです。
盲目を選ぶ人たち (39〜41節)
ところでそこには一部始終を監視していたパリサイ人たちが居たのです。慕う気持ちで「イエスと共にいた」のではなく、おそらくイエスの粗を探すためにパッパラッチのように付きまとっていたと思えます。その彼らに聞こえるようにイエスは言われました。
「私は裁きのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」39節
「私たちも盲目なのですか」と答えた彼らは、イエスの言葉にギクリとしたかのようです。 自分たちを「見えている」とする以上、彼らはそれ以上に神の真理を求める姿勢を持っていない事になります。* 神が送られた究極的な真理であられる御子イエス**を目の前にしてもそれを拒むに至った彼らにはもはやそれ以上の真理は残されていませんでした。そうなると、彼らには人を罪から解放する十字架の贖い(あがない)が値されなくなり、彼らにはキリストを拒絶した罪、そして人が生まれ持つ原罪が残ってしまうのです。彼らの様に、多くを学びながら真理を拒む事は盲目でいる事を選ぶ事であって、神がその様な心を見切ってしまわれる事をイエスは「裁き」と呼んでおられます。
*ルカ8:5、8:12、8:18
**ヨハネ14:6、使徒4:12
神のわざ
3節でイエスが、この男性が生まれついたのは「神のわざがこの人に現れるため」だと言われました。男性は当初イエスが誰なのか知りませんでした。肉体の目が開かれてから、男性はその真相が最初は分からないけど手探りで、わかっている真実を辿っていくその先でイエスの神性に遭遇し、魂の目も開かれました。まさしく「神のわざがこの人に現れ」たのでした。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」 マタイ5:8
適用:
偽り、誘導、洗脳、圧力と言う事柄が川の流れに例えられるなら、神の真理は動かない飛び石の様に川の水面に顔を出しているのを思い浮かべてみてください。9章の話はこの男性がイエスキリストがいる向こう岸までそれらの飛び石の一つづつに飛び乗り、しがみつき、その末にイエスの救いにたどり着いたかの様な話ではないでしょうか?
私たち一人一人の生活の中で、神は御子イエスのところに辿り着ける様に、またはイエスの元に日々戻れる様に聖書の言葉や良心、状況などの中に有る真実を飛び石の様に据えてくださっています。真理を求める心を持って次の飛び石を神に求めながら生きる事が重要なのです。